本日最終日

 今回の旅の一番の目的は世田谷美術館で開催されていた小野二郎展を見

することでありました。

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本日が最終日でありましたので、ぎりぎり間に合いました。

文学館でやってもいいような企画ですが、美術館ならではの視点が生きて

いました。

 当方のブログでは晶文社小野二郎ねたは、定番ものでありまして、その

ためにも、見ておかなくてはなのです。それにしても、よくぞ、このような

展示が実現したものです。

 小野二郎を軸に展開していけば、どういうことになるのかでありますが、

夫人の弟である高平哲郎からのつながりで、植草甚一や宝島に話がとんで

小野二郎の影響がこういうところにも及んでいるかな。

  この展示を見た友人は、これを機に小野二郎追悼文集 大きな顔を復刻して

くれれば、これが一番の収穫であったのにと、残念がっていました。

  当方にとっては、貴重な資料となる図録でありまして、ありがたく購入した

ありました。

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 宿に戻ってから図録の関連文献リストをみておりましたら、なんと当方が

以前に書いた文章があがっておりました。これは望外のことでありました。

 はるばる足を運んだ甲斐があるというものです。

本日はクリムト展へ

   本日は雨の中、はるばるクリムト展の見物です。以前にウィーンで、

クリムトを見物してきた友人は、とってもよかったぞと言っておりまし

た。ウィーンへと行くことを考えると、東京は近いや。これも、

LCCのおかげでありますかな。

 本日の会場は、20分待ちの表示がありましたが、チケットを買うのに並び、

入場するのに並んで、絵の前に立つまでには、その倍くらいかかりました。

人気の絵の前には、なんじゅうもの見物客ですが、金ピカのせいもあって、

オーラを感じることです。

   クリムトは、二重帝国時代の画家で、亡くなったのは帝国が崩壊して

ロシア革命が起こった翌年のことでした。崩壊が近くなると爛熟の文化が、

隆盛となるようです。この時代は、後に何を残すのでありましょう。
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気になることで

 本日の新聞広告(一面のさんやつ)を見たら、次のものがでていました。

桐山襲全作品1

桐山襲全作品1

 

 これはびっくりの企画でありますね。あまり売れるとは思えないのですが、

これを待っていた熱心なファンもいることでしょう。数年前には桐山襲さんに

ついての評伝がでていましたし、今の時代があまりにも融通無碍であります

ので、こういう硬派の作品群はよろしいか。

 今回の作品社の企画は「全作品」とうたっているだけに、二冊本で未発表

の作品も含めてまとめるようであります。この広告のどこにも内容見本を進呈

とはでていませんので、それは用意されていないのかな。

 ということで、作品社のホームページを見てみたのですが、簡単な紹介しか

ありませんでした。これは残念。なかなか現物を見るのは難しいでしょうから、

もうちょっとホームページで詳しくてもよかったのにな。

 桐山さんといえば、あまり読まれていないのに「パルチザン伝説」ばかりが

話題となってしまっていますが、それ以外にも興味深い作品はありで、読んで

みたいと思うものの、これはリクエストしなくては図書館には入らないだろうな。 

スターバト・マーテル (河出文庫)

スターバト・マーテル (河出文庫)

 

 

テロルの伝説:桐山襲烈伝

テロルの伝説:桐山襲烈伝

 

 

ハンディがいるかな

 規制を緩和したら、大きなところ強いところが生き残って、弱小のところは

淘汰されるというのは、いろんな業界で起こりました。

日本の場合でありましたら、サッカーJリーグとかプロ野球では、外国籍の選

手の試合登録に制限をかけているようです。たぶん、ほかのスポーツでもそう

したことはありますでしょう。

 最近でいきますと、中央競馬の世界では規制しているにもかかわらず、外

国から出稼ぎに来ている騎手にいいようにやられていまして、一日のほとんど

のレースを外国人騎手が勝利なんてことは珍しくありませんし、一年に開催さ

れるG1レースのうち、日本人騎手はいくつ勝てているのかであります。

 昨年くらいに話題となったのは、大学医学部では女性に対して不合理な

差別をしていて、女性が合格しにくい仕組みを作っていたことですが、今年は

その仕組みが是正されてきて、大学医学部合格者の女性比率がかなり上がっ

たといわれています。

 そんなことを思っていましたら、先日に発表となった今年上半期直木賞

候補作品はすべて女性作家によるものでありました。このところ女性作家の

書くものに元気を感じるのですが、それにしてもこういう時代になったか。

 そのうち男性にハンディをあげようかということにならんとも限らずであり

ますね。

サブカルな話題

 五十代も後半になったころから、まるでサブカルチュアの世界にはうとくなり

ましたです。年をとってきて、頭が固くなってきたことと関係がありでしょうね。

それと田舎暮らしのために、情報に触れることも少なかったからな。

 先日に入手した川勝正幸さんの「21世紀のポップ中毒者」を、トイレで読みな

がら、これで取り上げられている音楽も映画も人物もほとんど知らないのであり

ます。当時は無名であったが、今はずいぶんと有名になっているという人もいま

すが、今も活動をしているのかも知れないが、変わらずにサブカル路線を走っ

ているという人もいるのでしょう。

 そんなサブカル者に川勝正幸さんがインタビューしたものが、この文庫本に

収録されています。

21世紀のポップ中毒者 (河出文庫)
 

  インタビューを受けているのは、1969年に札幌(?)で生まれた吉野寿さん

というミュージシャン。この名前を見て、あああのグループの人ねとわかれば、

相当のサブカル通でありますね。「イースタンユース」というバンドのメンバー

だそうです。

 この人に、川勝さんは音楽、映像のことを聞いて、最後に下井草さんが

「日本の作家で、繰り返し読むのは誰になりますか。」と尋ねます。

 吉野さんは、「ヒーロー的に好きなのは、お恥ずかしいんですけど坂口安吾

です。」と答えます。お恥ずかしいというのが、なかなかわかっているかです。

そのあとに驚きの作家の名前があがってきます。

 下井草さんに「私小説作家の木山捷平もお好きなんですよね。」とふられた

のに対して、次のように返します。

「最高っすね。どれを読んでも面白い。外れがない。表向き、『僕には主張した

いことはないです」ととぼけていながら、グッと奥には黒光りする毒がある。」

 木山捷平とは渋いことでありまして、このように言っているのがあたって

いるのかどうかですが、さらにこのあと、梅崎春生島尾敏雄の作品について

話題とするのですから、これはなかなかすごい人でありますね。

 いまさらですが、吉野寿さんの名前を覚えておくことにしましょう。

忘れていることだ

 先日に立ち寄ったブックオフ橋本治さんの本を購入です。

橋本さんの本を、追いかけていなかったので、このような本がでている

ことは知りませんでした。

明日は昨日の風が吹く

明日は昨日の風が吹く

 

  この本のタイトルは、もちろんその昔の映画「明日は明日の風が吹く」の

もじりでありますね。石原裕次郎の映画であったと思いますが、橋本さんの

書名を見て、昔の映画を思い出す人は少なくなっているでしょうね。

(というか、昔の映画のことを知っている年格好の人しか橋本さんの本を読

むことはないか。)

 「明日は昨日の風が吹く」でありますので、これは歴史は繰り返すとか、

陽の下に新しきことなしと似たような意味になるのでしょうか。たとえば、

橋本さんが2004年に書いている「年金問題が分からない」とものから引用

してみましょう。

「世の中で『大問題』になっていることであろうことの中で、私にわからないの

は『年金問題』である。・・じきに五十六歳になるのだが、相変わらず『年金問

題』が分からない。

 おぼろげながら思うことは、それが『破綻した』という状態に至るまで、国民

にかなりのダメージを与え続けるのだろうな、ということだけである。

今までの日本の『破綻した』という事態は、すべてが『将来大変なことになる

可能性を孕んでいる』の未来先送り型だったが、そろそろ状況は『未来』と

いうところに足を踏み込んでいるのではないかと思う。」

 この文章は、「広告批評」2004年4月号に掲載のものでありますから15年

前のもの。このあとにいろいろと方策を講じたことによって、年金制度は大丈夫

といったのもつかの間、制度は大丈夫でも、これで国民の生活を守ることは

できないということが明らかになってきていますが、国民の生活を守ることが

出来ない制度とは、破綻しているというのとどう違うのか、それは当方にも

わからないことで。

 2007年には、次のような文章がありです。

「私が『安倍晋三には関心がない』と言うのは、あまりにも言うことが空々しく

て、しかもきっぱり断定してしまっているからだ。断定が先で、先に断定されて

しまっているから、その後の『説明』が続かない。

 『説明』は形式的で、『初めに結論が出されて断定されている以上、説明

などという瑣末なことはどうでもいい』という前提に立っているとしか考えら

れない。

 『説明』抜きで、当人の中では『結論の断定』が成り立っている。である

以上、『断定の後の説明』は、あってもなくてもいい。だから、『説明にならない

説明』が罷り通っている。」

 この翌月には、「安倍晋三って、もっと簡単に一言で言えちゃうような人なん

じゃないかな」ということで書いているのですが、「この人が最初に出て来た

時から、私はある二文字を思っていた。(それは、あなたの思うハ行の濁音で

始まる二文字です)しかしいくらなんでも日本を代表する総理大臣を、なんの

根拠もなくそんな二文字ではくくれないしなあ」と続きます。

 ハ行の濁音で始まる二文字か。

いーえ 世間に

 本日のタイトルは、もちろん「昭和枯れすすき」の一節であります。この

ところに頻出する理解しにくい事件の知らせを聞くごと、頭のなかに「さくら

と一郎」が歌う「昭和かれすすき」の曲の冒頭が聞こえてきます。

 「世間に負けた」でありますよ。「世間とは何か」というと、これは阿部謹也

さんの説明を借りることにします。

日本社会で生きるということ (朝日文庫)

日本社会で生きるということ (朝日文庫)

 

  阿部さんは西洋史研究を通じて、日本社会をみた時にヨーロッパの近代

社会と日本とはちょっと違うところに気がついたとのことです。

「日本の場合は、『個人』と『社会』の間には、もうひとつ大きな媒介項があっ

て、それが『世間』というものだと、私は考えています。

 私の言う『世間』とは何かと言いますと、これはパーソナルな、人的な関係

で、いわば個人と個人が結びついているネットワークだと言ってもよろしいと

思うんですね。

 その人がその人でありうるためには、仲間を持っていなければならず、その

人がその仲間のなかにいることによって、その人でありうる、というふうな場で

すね。」

 「『世間』に受け入れられることによってのみ日本人は大人になる。」といっ

ていますので、「世間」に受け入れられていないと思う人たちは、いくつになっ

ても大人にはなれていないということでありますか。

「犯罪を犯して容疑者になり、裁判が進行しているとすると、日本の『世間』は

どう対応するのでしょうか。彼は、少なくとも周りの『世間』から追い出されてし

まう。それだけではありません。彼の父親も母親も、姉妹までが追い出されてし

まう。つまり、『犯罪者の家族』という目で見られて、いわゆる『世間なみ』の

付き合いができなくなる。ということを、日本の新聞も雑誌も当然のこととして

いるように見えます。」

 この文章は、1993年の講演を記録したものになりです。それから20数年が

経過して、マスコミが当然としていることは、ネット社会となって世間の人や、

世間と緊張関係にある人などが、たくさんの書き込みをすることになりですが、

その多くは「犯罪者の家族」に厳しいことでありまして、世間に受け入れられな

くて、大人になれないのは、その父親や母親に問題があるのだから、両親は

同罪であるというのは、いかにもわかりやすいことでありますが、この子どもが

60代であったとしたら、90代に近い両親はやはりバッシングをあびるので

ありましょうか。