いーえ 世間に

 本日のタイトルは、もちろん「昭和枯れすすき」の一節であります。この

ところに頻出する理解しにくい事件の知らせを聞くごと、頭のなかに「さくら

と一郎」が歌う「昭和かれすすき」の曲の冒頭が聞こえてきます。

 「世間に負けた」でありますよ。「世間とは何か」というと、これは阿部謹也

さんの説明を借りることにします。

日本社会で生きるということ (朝日文庫)

日本社会で生きるということ (朝日文庫)

 

  阿部さんは西洋史研究を通じて、日本社会をみた時にヨーロッパの近代

社会と日本とはちょっと違うところに気がついたとのことです。

「日本の場合は、『個人』と『社会』の間には、もうひとつ大きな媒介項があっ

て、それが『世間』というものだと、私は考えています。

 私の言う『世間』とは何かと言いますと、これはパーソナルな、人的な関係

で、いわば個人と個人が結びついているネットワークだと言ってもよろしいと

思うんですね。

 その人がその人でありうるためには、仲間を持っていなければならず、その

人がその仲間のなかにいることによって、その人でありうる、というふうな場で

すね。」

 「『世間』に受け入れられることによってのみ日本人は大人になる。」といっ

ていますので、「世間」に受け入れられていないと思う人たちは、いくつになっ

ても大人にはなれていないということでありますか。

「犯罪を犯して容疑者になり、裁判が進行しているとすると、日本の『世間』は

どう対応するのでしょうか。彼は、少なくとも周りの『世間』から追い出されてし

まう。それだけではありません。彼の父親も母親も、姉妹までが追い出されてし

まう。つまり、『犯罪者の家族』という目で見られて、いわゆる『世間なみ』の

付き合いができなくなる。ということを、日本の新聞も雑誌も当然のこととして

いるように見えます。」

 この文章は、1993年の講演を記録したものになりです。それから20数年が

経過して、マスコミが当然としていることは、ネット社会となって世間の人や、

世間と緊張関係にある人などが、たくさんの書き込みをすることになりですが、

その多くは「犯罪者の家族」に厳しいことでありまして、世間に受け入れられな

くて、大人になれないのは、その父親や母親に問題があるのだから、両親は

同罪であるというのは、いかにもわかりやすいことでありますが、この子どもが

60代であったとしたら、90代に近い両親はやはりバッシングをあびるので

ありましょうか。