島田雅彦さんの「時々、慈父になる。」は、そろそろ返却期限をむかえます。
さらっと最後まで目を通したのですが、全体としては小説家の家族の話という
のが縦軸で、その時々のエピソードが横軸に配置されます。
先日に紹介した文豪古井由吉さんについての話題もそうでありました。
この他で目をひいたのは、島田さんを最初に大学教員に誘った後藤明生さんに
ついての話題も印象に残りました。
「近畿大学の特任助教授の職は2002年度で辞することにした。大阪の思い出
は無数にあるが、常に脳裏をよぎるのは、わたしを大阪に呼んだ後藤明生の声と、
当時の京都の遊び相手、平野啓一郎の顔である。
後藤明生の訃報に接したのは1999年だったが、私の意識の中ではその後も
しばらく生きていた。あのしわがれた笑い声、たばこのヤニだらけの歯、眼鏡の
奥の抽象的な目が、消せない残像となっており、路地や居酒屋の一角に現れそう
な気がしてならなかった。」
後藤明生さんについては、ほぼ1ページに及びますが、最晩年の後藤さんの
様子が描かれているのと、後藤さんに縁の地をめぐるのですが、これも島田流の
供養でありますね。
もう一つ興味深かったのは、芥川賞の選考委員に就任するにいたる経緯と、
選考委員として、石原慎太郎とのやりとりについてであります。島田ファンには
良く知られているのでしょうが、当方などは初めて知ることでありました。
文藝春秋社の担当から選考委員への就任を打診されたときのやりとりが書かれて
いました。
「『私を六回落選させた戦犯は誰ですか?』と直球を投げ返した。お茶を濁すこと
なく、安岡さんと開高さんの名前を挙げたところに誠実さを感じた。」
そうなのか、島田さんが候補であった時代は、安岡章太郎と開高健が仕切って
いたのか。
選考委員となってからは、石原慎太郎とぶつかったりするのですが、石原が
その場の勢いで「不愉快だ、辞めてやる」といった言葉を引き取って、その場で
石原の前で正座して、これまでの労をねぎらい、石原が選考委員をやめざるを
得ないようにしたのだそうです。
自分からは辞めそうもない人の首に鈴をつける役目というのも、島田さんの
役割であったということですが、そうであったのか。