りんとして

 詩人の石垣りんさんのエッセイ集が中公文庫から刊行となりました。これまで

ちくま文庫などに収録されていたエッセイ集からの選ばれたものを収録したも

のとなります。

 石垣りんさんは、1920年生まれでありますから当方の亡父と同じ年に生ま

れとなります。経済的に恵まれた家庭ではなかったので、当時の高等小学校を終え

ると14歳で働きにでることにです。勤めたのは、今はない日本興業銀行です。

日本興業銀行というのは、ちょっと特殊な銀行でありまして戦前にあっては工業の

近代化に、戦後は高度成長を金融面で支援するのが役割でありました。

 この銀行は多くのエリートたちが働いていたのですが、その一番底辺で仕事を

していたのが石垣りんさんのような女性となります。

 それこそ石垣さんは、工場ではなくて、事務部門に籍を置くプロレタリアであ

りまして、戦後になって労働組合活動に入っていくのは当然の道であったように

思います。

 石垣さんの書いているところから引用です。

「あの時代のオツトメに、少女がどれだけ自分を生かすことの出来る職場があった

か、ということです。昭和十年ごろのことです。 

 一般の会社では、女性はあくまでも使われる者の立場。身分制というものがゆる

ぎなくたちはだかっていて、経営者の次に男性という上層があり、その下で働く

という、二重の枷がありました。それさえ明確には気づかなかった、というのが

ほんとうですが。昇進というものから切り離された女性の地位は、昇給という形で

あがなわれ、上へ行くといっても女性の中で少し頭株になる、という程度のことで

した。」

 石垣さんは興銀に定年となる55歳までおつとめしたとあります。定年の頃に

は詩人としても有名になるのですが、たしか最後まで銀行でポストにつくことは

なかったはずです。

 当方が学校を終えて仕事についたのは1974年ですので、その年代には石垣

さんのような高等小学校を卒業し、最初は給仕という職種で採用されたベテラン

の事務員さんがいましたです。

 その当時は職員のお茶入れは、給仕さん時代からのならわしで女性職員の役割で

ありました。

 給仕さんがやっていた役割を、女性職員全体で担うということになったときに、

当時の意識高い女性職員の中からは、給仕がやっていたことを、どうして私たち

がやらなきゃならないのさと声があがったとのことです。

 それから半世紀もたって、女性の会社での働き方はずいぶんと変わっているの

ですが、そうした時代にあって、まだまだ不十分であるということと同時に、

石垣りんさんのような人たちがいて、現在があるということを思わなくては

です。