やっと知っている人が

 ずいぶんと前から図書館本「進駐軍を笑わせろ!」を借り続けています。

最初はうまく読めずで、これは戻そうかと思ったのですが、書評を目にしたり、

「みすず読書アンケート」であげている人がいてで、これはなんとか読まなくて

はと思いながら、日がたっています。

 進駐軍というのは、当方が生まれた頃の連合軍のことでありまして、当方が

物心ついてからは駐留軍といわれるようであります。当方が高校の頃はベトナム

戦争時期であったこともあって、まちにあった米軍の基地は、そこそこ賑わって

いたようです。(いまは米軍基地は廃止となっています。)

 この本を見ていたらでてくるキャンプというのに、なんとなく身近に感じるこ

とです。

「その当時、食べものもなかった。米軍のキャンプに行くと食べるものがでるん

ですよ。・・いまでいうバイキングスタイル。パンにハムを挟んだり、サラダを

取ったりとかさ。・・そういうのをお土産に持って帰ったり。ただ、基地のゲー

トでは調べる。入るときはそうでもないんだけど、出るときはね。」

 これは1946年頃の米軍キャンプの様子であります。

 さすがにそれから二十年ほどたってからの基地の町で、食べものがないという

ことはなかったのですが、それでもキャンプの中にはUSAのホームドラマの世界

がありまして、国内では流通していない食品もあって、それは垂涎でありまし

たね。(いまはまったくUSAの生活文化にあこがれることはなくなっていまして、

USA流の倉庫のような大型店舗にも行きたいと思ったことがありません。)

 進駐軍の慰問で行っていた芸人さんたちは、子どものころに行っていた人を

除いては、当方は名前を聞くのも初めてで、どのような芸をするのかもわから

ないことです。

 そんななかで、やっとその芸を目にした人が登場することになるのですが、そ

の方が出てくるのは157ページのことでありました。

「少年期に米軍慰問ショーで演じた曲芸師はほかにもいるが、なかでもテレビに

よく出てお茶の間でもお馴染みだったのが、兄弟コンビの染之助・染太郎だ。」

 このお二人は、よくテレビで見ることがありました。(生では見たことはない

のですが)

 太神楽という昔ながらの芸ですが、兄の染太郎さんは1932年生まれ、弟の

染之助はその二才下とのことです。(コンビ名は染之助・染太郎であることに

注目ですね。)

 染太郎さんが亡くなってからのインタビューで、染之助さんは、次のように

語っています。

「染太郎は『成績優秀の人だった』が『芸に向かない人』で、難関の都立高校に

受かって、薬剤師になる夢も描いていたぐらいの秀才なのに、嫌いな芸事をやら

されて』いたという。染之助の曲芸にからむ染太郎の溌剌とした英語の口上には、

進学を諦めて芸の道に耐えながら生きた、当時まだ三十代前半だった兄の意地が

隠されていたのかもしれない。」

 兄弟であるからして、成立するような染之助・染太郎の芸ですが、兄貴さん

はひたすら話芸でありまして、自ら太神楽を披露することはなしでした。

 この本を読んでみて、あのお二人の役割分担がわかったような気になりです。


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