予定とおりにいかないこと

 本日は月曜日でありますので、パン作りをしてトレーニングに行って、一月に

亡くなった先輩のところにお参りにいくという予定をたてておりました。

 その合間に、すこし本を読むというものでありますが、予定とおり行かないが

日々の生活でありまして、朝起きてすぐに除雪をしたり、天然酵母のあがりが

良くなくて、時間通りいかないというようなことで、結局はトレーニングをあき

らめることになりました。

 本もすこしは読めるはずでありましたが、あまりはかばかしいものとはなりま

せんでした。

 先日に手に取った谷崎潤一郎新書版全集が、近くにおかれているので、それに

手を伸ばしてしまいました。「途上」を読むためにひっぱりだしてきた巻ですが、

その巻頭に置かれている「白昼鬼語」という作品を目にしましたら、いきなりに

「てっきり園村は発狂したに相違ない。」とありまして、最近は「発狂」なんて

言葉を小説に記することは難しくなっていることと思うことです。

 谷崎の作品は、それこそ現代の感覚では到底許されないような記述があちこちに

ありますからね。この「白昼鬼語」(昼に字は、旧字での表記が正しいのですが)

は、全集以外のどこかで読むことはできるのでしょうか。

「私は心から彼の発狂に憂慮し、恐怖し、而も甚だしく狼狽した。

 金と暇とのあるに任せて、常に退廃した生活を送って居た園村は、此頃は普通

の道楽にも飽きてしまって、活動写真と探偵小説を溺愛し、日がな一日、不思議

な空想にばかり耽って居たやうであるから、その空想がだんだん募ってきた結果、

ついに発狂したのであらう。さう考へると私はほんたうに身の毛がよだった。」

    この作品は大正7年の作品とありますので、今から百年ほど前に発表されたも

のとなりますが、当時は「発狂する」というのは普通に使われていたのですね。

「その空想が募った結果、発狂」ということになれば、最近のいろいろな熱中

さんあたりは、軒並み発狂状態ということになりそうです。

 発狂とか廃人という言葉は、当方が中学生のころ(今から60年くらい前)ま

では普通に使われていたのでしょう。

当時、モーリス・ラベルについて、交通事故の後遺症で廃人となってしまった

というような説明がされていて、廃人となるのはどういうことなのだろうと思っ

たことであります。もちろん、最近の説明では、そんなおおざっぱな記述はさ

れないことであります。