本日は森まゆみさんで

 週末は(なんとなく本日まで気分は週末)森まゆみさんの本を読んで過ごす

ことになりです。月曜のパン作業の合間には「聖子」を、外出して待合の時に

は、持参した「昭和・東京・食べある記」を読んでおりました。

 いくらもページを稼ぐことはできていないのでありますが、こういう読書は

楽しくてよろしで、呼ばられるのを待っている時も、まるで待つことが苦にな

らずでありました。

 「昭和・東京・食べある記」に取り上げられている食事処は、ほとんど当方

が足を運んだところはありませんで、これを機会に行くことができればいいの

でありますが。

 最初に出てくるのは、上野「黒船亭」で、ここは数年前に店の前まで行きま

したが、行列ができていて入るのを諦めたことがありました。この店は上野

のれん会の会長さんを務めている須賀さんが経営しているのでありました。

上野のれん会といえば、タウン誌「うえの」でありますね。

 森まゆみさんの本にも、そのことが書かれています。(森さんが須賀さんに

インタビューしているところからの引用です。)

「父が『うえの』というタウン誌を創刊して60年になります。それこそ戦後

上野駅周辺には戦争被害者である浮浪児と呼ばれる子どもたちがいたり、闇市

があったり、その後、上野の森にどんなに博物館、美術館が復興しても、・・

上野は怖い町、というのが払拭できなかった。美術を学んだ父は、山と町をつ

なぐにはタウン誌しかない、山があっての町である、ということを基本に『う

えの』というタウン誌を出しまして、今も続いています。」

 のれん会のような組織がだしているタウン誌は銀座が有名で、ついで「うえ

の」でありますが、当方は銀座はなじみがなく、「うえの」はそこそこ手にす

る機会に恵まれました。

 というのは、もちろん「うえの」に関係していた小沢信男さんのおかげであ

りました。小沢さんはいくつかのところで「うえの」について、書いたりして

いるはずですが、すぐに見つかったのはSUREからでた「小沢信男さん、あな

たはどうやって食ってきましたか」で語っているものです。

 小沢さんは、次のように言っています。

「あれは、上野のれん会の大将(須賀利雄)が、ロータリークラブのつきあいで、

共同印刷の印刷製本ではじめた。だけど、はじめ二、三号出して、編集が素人っ

ぽくて、困っていた。」

 それで潰れたばかりの河出書房の編集者に声がかかって、それで呼ばれたのが、

小沢信男さんの友人であった河出OBとのこと。

「彼に呼ぼれて手伝いに行って。それ以来、編集人はつぎつぎに勤めては辞め、

勤めては辞めしているけど、おれは社外の助っ人のままで、ずーっといままで来

ているわけ。」

 小沢さんは第四号から助っ人として関わり、編集顧問ということで最後まで

関わっていたはずです。

 小沢さんは「うえの」の関わりのなかで、のれん会の会員などの葬儀の時に

会長がよみあげる弔辞などを作成したというようなことを、どこかで書いてい

たように思いますが、本日は見つからず、そのなかには「のれん会の大将須賀

利雄」さんの葬儀の弔辞もあったように思いますが、これは記憶であります。