オランダでつながる

 昨晩にTVを見ていましたらサッカーの日本代表チームがカメルーン代表

を相手に試合をしていました。試合後半のみの見物でしたが、代表チームの

試合ができただけでもめでたしであります。このコロナの時代に会場はどこ

であったのかと思いましたら、オランダはユトレヒトとのことです。

 外国からの入国者に神経質になっている時に、オランダはさすがでありま

すね。ちょうど、昨日に手にしていた本にオランダにかかわる文章がありま

して、昨日はオランダでつながったことであります。

 その一つは、坂根厳夫さんの「科学と芸術の間」にあった「日本にいた

エッシャーの父」というもの。

科学と芸術の間 (朝日選書)

科学と芸術の間 (朝日選書)

 

 「オランダの版画家M・C・エッシャーといえば、無限に滝の水が循環する

ふしぎな絵や、トカゲや魚のモザイク模様の作品などで、世界の若ものたちの

人気を集めている作家である。ところがこのエッシャーの実父であるG・A・

エッシャー(1843〜1939年)が、明治初年に日本政府が招待したお雇い外国

人技師として来日し、五年間も滞在して各地の治水事業に尽くしていたばかり

か、日本人の現地妻までいたことが、最近明るみにでてきた。中型ノートに

オランダ語でぎっしりとペン書きされた200巻の回想録のうち一巻が日本

日記だった。」

 坂根さんは朝日新聞記者としてエッシャーの紹介をされ「遊びの博物誌」で

有名でありました。

 エッシャー父が日本を去ったのは1878(明治11)年7月だそうです。オラン

ダに戻ってから版画家エッシャーは生まれるのですが、帰国する前の逸話を

坂根さんは紹介しています。

エッシャーは一等工士という身分もあって、(仕事に恵まれ)政府直轄の

仕事よりも地方の県のしごとを手伝うことが多くなった。・・東京を拠点とし

て、新潟、山形、福島などの調査旅行に出かける。その間、山形と福島両県の

県境に建設中のトンネル工事にも立ち会っている。

 やがて延長していた契約期間も切れ、オランダの親戚の不幸もあって帰心を

そそられる。エゾ(北海道)へ月給550円でこないかというすすめも断り、

家財を売り帰国準備をすすめる。」

 おっと、こんなところでエゾ(北海道)が登場するとはです。北海道は開拓

使が普請の最中でありまして、1881(明治14)年には天皇行幸がありましたか

らね。

 1878年5月にはイザベラ・バードが横浜へと上陸してエゾの平取へと向かう

ことになりますが、エッシャーがエゾで働いていましたら、どこかで出会って

いたかもしれませんでしたね。

 オランダつながりの二冊目は、「みすず」10月号に掲載の水島治郎さんの

文章でありました。そこには、オランダを代表する人物としてアンネ・フランク

スピノザの名があがっています。

 どちらもオランダ アムステルダムに住んでいたユダヤ人でありました。

ということで、水島さんの文章のタイトルは「『隠れ家と広場』から見た移民

都市アムステルダムユダヤ人」というものになりです。