中村とうようさん追悼 16

 最近は、すっかり縁遠くなっていた中村とうようさんの名前を眼にしたのは、思い
がけない文脈でのことでした。
 今年の2月に拙ブログで話題としていた坂根厳夫さんの「メディア・アート創世記」に
おいてでありました。
「 中学校は日本海に面した京都府宮津市の府立宮津中学校に通った。一年生の夏に終戦
になったため、その前後に海外から引き揚げてきた友人も多かった。・・
 同級生の一人には、峰山町で和久伝旅館の長男だった桑村一郎がいた。母親同士が昔
からの友人だったこともあり、親しくしていたが、彼も同じピアノの先生から音楽を学ぶ
ようになって、突然、声楽家になりたいといいはじめた。・・・
 ほかにも、文章がうまく、後にジャズやロックなどポピュラー音楽の評論家になった
中村東洋(文筆名 とうよう)も、学区制が実施される中学三年まではいっしょだった。」
 とうようさんに言及しているのはこれだけですが、坂根厳夫さんと、中村とうようさん
が田舎の旧制中学校で同学年とは、驚いたことです。
 とうようさんが「フォークからロックへ」の自分史にあたるところでは、次のように
書いていました。
「ぼくは、田舎の小さな町の、あまり裕福でもないうちに生まれ、戦争の激しかった時代
に幼年〜少年期を送ったので、どうみても音楽的環境に恵まれていたとはいえない。しか
しそれなりに、たとえば両親ともに邦楽に親しんでいたというような条件もあったし、
ぼくはごく小さなころから、近所の人に流行歌など教えてもらうと割によく覚え、おとな
たちにおだてられて得意になって歌ったりした記憶があるから、音楽は好きなほうだった
のだろう。
 いっぽう、物を書くのも嫌いではなかった。算術はからきしダメだったが綴り方は小学
生のときから好きだった。高校生のころ、友人たちとガリ版の新聞や雑誌を作った。」
 坂根さんは、とうようさんよりも2歳年長でありますが、身体の不調のために2年留年
して中学校では2歳下の人と同級になったとあります。このころの宮津中学は優秀な生徒
が多かったと、坂根さんは記していますが、とうようさんが「友人たち」と記している
なかに、坂根さんがいたかどうかはわかっておりません。