ハンセン病のことなど 3

 その昔でありましたら、一番かかりたくない病はハンセン病で、次は結核

ありましょうか。これらにかかるということは生きるのが大変になるということを

意味しました。

 どちらも療養所などがあったのですが、ハンセン病のほうは片道切符であり

まして、それこそ死んでも故郷には戻ることができなかったのであります。 

 後年になって長島愛生園で精神科の医師として診療に従事する神谷美恵

子さんは、学生の頃に結核に罹患していることが判明しました。

ちょうど津田塾の大学部に籍をおいたときだそうです。

「ところが、その後間もなく、結核にかかっていることが発見された。万事休す。

家族への感染の問題を考え、ひとりで山へ行くことを願い出て、療養生活を

送った。地元の夫婦が階下にいて食事を作ってくれたが、感染を恐れていたか

ら、窓ごしに食事を出してくれるとき、簡単なあいさつを交わす程度の接触しか

ない。よい薬もない時代で、治るみこみはほとんどない、と主治医の寺尾殿治

先生から聞かされていた。

 二階にじっとねたまま、本台にぶらさげた書を読む日々の心境にはまさに『死

への準備』のような面があった。」

 この療養が功を奏して結核は問題にならなくなるのですが、そのあと米国留

学を経て女子医専に入学することになりです。

 医師となってからは精神科をこころざすのですが、そのなかで長島愛生園の

光田健輔さんの人物にひかれていくことになります。

 神谷さんが長島愛生園で目にした患者さんについてです。

「園内の精神病患者の実態調査をしたときにみた光景である。老朽化した木造

の小さなバラックに、いくつかの板敷きの座敷牢のようなものが並んでいる。

その一つ一つに、垢にまみれた患者がとじこめらていて、文字通り、荒れ狂って

いるのであった。」

 この光景は昭和32(1957)年頃のことだそうです。ハンセン病にかかって、

しかも精神を病んでいるひとは、このように療養環境だったのですね。

 当方の友人の精神科医師が、まだ医学生だったころのことを回顧した文章を

送ってくれましたが、そのなかに次のようなくだりがありました。

「私は日本の最南端の精神科病棟であった沖縄県石垣島の総合病院精神

科に春休みの3週間を見学という形で居候した。・・

当時の石垣島では私宅監置がまだ存在しており、粗末な木の檻に閉じ込められ

て言葉も失い不潔な状態になっている患者への訪問も行っており、私も同行し

た。」

彼は当方と同年でありますから、これは45年くらい前で1975年くらいのことで

しょうか。神谷さんが長島で目にした光景から二十年弱ですが、ほとんど変わっ

ていないことでありまして、こうした時代は、ずっと続いていたのでありますね。

 神谷美恵子さんではありませんが、「なぜ私たちでなくて、あなたが?」であり

ます。

人間をみつめて (神谷美恵子コレクション)

人間をみつめて (神谷美恵子コレクション)