ハンセン病のことなど 2

 それにしてもハンセン病については、知らないことばっかりであります。

 新型の感染症で、世界中がきりきり舞しているこの時期に百年以上も前の

日本で不治の病と言われたハンセン病とそれをとりまくあれこれについて書か

れた本を読むというのは、古きをたずねであるのかもしれません。

 この話題の中心となるのは松岡弘之さんの著書「ハンセン病療養所と自治

の歴史」 みすず書房であります。もちろん、この本は現在大流行の新型感染

症に乗じて刊行されたものではないのですが、これを読みますと百年以上も前

の日本人(たぶん、日本だけの話ではなく、世界中で共通のことでしょう。)たち

が、この病気を恐れ、それを忌避するがために、患者を差別し、隔離してしまうと

いう道筋について教えられることが多いのです。

 ここ何ヶ月かに感染した人を差別し、その人々の治療にあたる医療者を忌避

するというのは、ずっと昔にとられたことと同じでありました。近代化というのは、

そういうプリミティブな心性を克服したようにいわれていたのですが、ぜんぜん

そのようなことはありませんでした。

 といいうことで、松岡さんの本から「隔離の推進」というくくりで書かれている

ところを引用です。

「1909年、公立療養所が設置されたが、五か所の療養所の定員は全患者数を

大きく下回る1100名に過ぎず、全生病院院長の光田健輔は感染リスクが放置

されている状況に不満を募らせていた。1915年2月、光田は内務省に『癩予防

に関する意見』を提出し、浮浪する患者を収容し、自宅療養者に予防的な注意を

与えるだけの現行制度では、家族内の感染を防げないとしたうえで、国庫費用

により約二万三千名すべの患者を『一大島ニ隔離』することを求めた。またその

ための施設整備に必要な資金は軍艦一隻の建造費にも及ばないと主張した。

一方で隔離の強化を人権問題として批判する者があることについては、仮に

入所者が逃走したとしても、結局は各地の療養所を転々としているとして、患者

の居場所は療養所しかないと強調したのであった。」

 1909年ですから明治42年となります。そのとき光田健輔さんは、東京全生

病院の院長でした。結果としては光田さんの主張がいれられて瀬戸内海の島に

国立療養所が作られ、それの立ち上げを光田さんが担うことになりです。

 ずっとあとになって治療薬が世に出てからも隔離政策を続けることになったと

光田さんは批判を浴びることになるのですが、隔離政策を続けざるを得なかった

背景は、人々の心の中にもあったのでありましょう。

ハンセン病療養所と自治の歴史

ハンセン病療養所と自治の歴史

  • 作者:松岡 弘之
  • 発売日: 2020/02/13
  • メディア: 単行本