作戦をかえて

 図書館から借りている本は、返却期日がせまっているのに、さっぱり消化する

ことができずであります。何回延長してもそうですからして、これはちょっと作戦を

かえなくてはです。作戦なんて、そんな大層なことではないのでありますが、走り

読みするのに、着目するワードを入れ替えようという話です。

 そのようにして読んでみているのは、次のもの。

百鬼園 戰前・戰中日記 上

百鬼園 戰前・戰中日記 上

 
百鬼園 戰前・戰中日記 下

百鬼園 戰前・戰中日記 下

 

  戦時中の食べ物が不足した頃に、どんなものを食べていたろうかという興味か

ら昭和18年ころのを先に見ていたのです。これはこれで面白いのでありますが、

もう一つの興味であるところの百鬼園先生の家庭生活のことです。

 こういう時に重宝するのがウィキでありますが、これを見ますと百鬼園先生は

大正元(1912)年に親友の妹である清子さんと結婚し、その後二男三女を設ける

ことに(ウィキでは1917年生まれの二男さんが記されていないけど)なります。

 百鬼園先生はわがままでありますので、家族はたいへんでありました。古い

講談社版全集の年譜 大正14年 36歳のところには、次のようにあります。

「陸軍教授を辞任。家庭生活を一切放棄して早稲田終点に近い下宿屋早稲田

ホテルに独居する。」

 その前年に三女さんが生まれているのですから、乳飲み子のいる家庭を捨て

ることになるのですね。ほんとひどい父親であります。

このあたりのことを、先生はどのように書いているのかですが、たぶんほとんど

書いていないはずで、書いているのは家計が火の車であったことくらいであり

ましょう。

 どなたが書いていたのか、まるっきり憶えていないのですが、その方は先生

の二男 唐助さんと小学校か中学校の同級生だったとあったのですね。

おかっぱ頭で、あまりぱっとした印象ではないとあったように思うのですが、この

唐助さんが上巻にはひんぱんに登場します。

 たぶん、生活費を受け取るために来ているのだと思われるのですが、もち

ろんそれについて具体的な記述はなしです。昭和12年2月23日の日記。

「六十圓金策の為、午後中央公論に行き、雨宮にあふ。だめ。佐藤春夫に廻っ

て十圓と松屋の商品切手五十圓借りた。帰りに小山書店に寄る。夕、帰る。

唐助来てゐた。御飯を食べずに帰った。」

 この時、唐助さんは21歳で、長男さんはその前年に亡くなっています。

 それにしても、なんとなくかなしいのでありますね、唐助さんは。

 昭和13年9月のことになります。

「9月26日 夜おそく、太田、多田来。唐助の事なり。解決の知らせなり。

9月28日 夕、太田、多田、大井の三人、唐助を伴ひ来る。唐助は一月末以

来なり。夕食を供せず、みなすぐに帰る。」  

 一月になにかがあったのだなと思って、この年の一月くらいをみますと、

二月四日に次の記述ありです。

「るすに内山来。唐助が一日以来小日向の家を家出してゐると言った由。

心配で夜通し唐助の夢を見けた。」

 小日向の家は、家族が暮らす家となります。唐助さんは、家出して連絡が

とれなかったのが、所在がわかって9月28日に父親である先生のところに

顔を出したと知れます。

 それじゃどうして家出をしたのかです。1月29日にこうありました。

「午後、唐助来。六高文科に受験の手続きをさせた。」

「手続きをさせた」のですから、これは不本意であったのかもしれません。

ちなみにその時の唐助さんは、前年に浦和高校の受験に失敗して、4月から

「早稲田腰掛け」とありました。

 父親は「腰掛け」のつもりであったけど、唐助さんは受験しなおす気持ちが

なかったのでありましょう。

 いつの時代も親子の関係は難しいことであります。