いつも金の心配を

 大きくても小さくても会社をやっていれば、資金繰りに苦労することで

あります。特に細の出版社なんて、ひどく大変な思いをして本を刊行して

いるのに、いつも懐具合は火の車でありましたでしょう。出版社に金を貸し

てくれるような金融機関は高利貸しといわれるところ以外にはないのが

現実でありました。

 自分の手持ちの資金ではじめた場合には、かなり用意していても、じき

に底をついたようであります。本日に読んでいた「鶴見俊輔伝」には、鶴見

さんが「思想の科学」の刊行を継続するために、「もがくように苦しんでい

た」とあります。

 同人雑誌のようなものでスタートしてから、発行元を「講談社」や「中央

公論社」などにお願いをしてやっていくのですが、「講談社」はあまりの赤字

に、「中央公論社」は「風流夢譚事件」に巻き込まれる形で、たもとを分かつ

ことになり、それからまる一年ほど空いて、有限会社思想の科学社から、

第五次「思想の科学」が復刊することになります。

 そこにあったのは、鶴見さんが兄事する都留重人さんのアドバイスであり

ました。雑誌は「ガリ版でも出す」という鶴見さんに都留さんは、次のように

いったとあります。

「それは、いけない。雑誌というものは、財産なのだから。カネは手配してあ

る。そこに行って、資金を借りて、ちゃんとした雑誌を出すようにしなさい。」

 ということで都留さんが手配してくれていたのは、井村寿二(金沢の百貨

店・大和の経営者、のち勁草書房社長)さんでありました。井村さんからは、

新会社設立の資金として関係者10人の連名で百万円を借り受けたとあり

ます。(1962年の百万円であります。)

 この百万円がなければ、第五次「思想の科学」のスタートは、まるで違った

ものになったことでしょう。

 このあとに井村さんは勁草書房のスポンサーとなっていくのでありますが、

これはなかなかない話であります。

鶴見俊輔伝

 それじゃ昨日に話題とした松本昌次さんの「影書房」は、どうなっていたの

かなと思いました。松本さんも自著のなかで、これについて書いているのであ

りますが、小沢信男さんの「通り過ぎた人々」にも、これが書かれていました。

「1983年、松本昌次が影書房を設立。これに助勢し、91年よるは代表取締役

になる。ついに生涯のコンビだった。」

 小沢さんに松本さんの生涯のコンビと呼ばれたのは庄幸司郎という方であ

りました。

通り過ぎた人々