生涯のコンビ

 後年に松本昌次さんが創業した影書房代表取締役となる庄幸司郎さん  

のことを、小沢信男さんは「通り過ぎた人々」で取り上げて、庄さんは松本さん

の生涯のコンビとよんでいます。

 この不思議な二人の関係について小沢さんの文章で見てみることにします。

庄幸司郎は、1931年に、旧満州の大連で生まれた。辛酸をなめて京都へ

引き揚げる。1950年に上京し、働きながら都立一橋高校夜間部へ通う。

そこで、新任の教師にであった。

 若い時間講師は英語の教室で宮沢賢治魯迅サルトルを語り、反戦平和

を熱烈に語った。朝鮮戦争レッドパージの嵐の時期で、てきめんに半年でクビ

になってしまった。

 この失業教師と、やがて庄幸司郎は共同生活をはじめた。朝から庄は労働に

でて、失業者は日中ひたすら本を読む。その本の中身を、晩飯をご馳走になり

ながら庄に語ってきかせる。そういう日課だった。」

 これが生涯のコンビの出会いとなります。夜間部の生徒であった庄さんは、

パージにあって教室を追われた若き教師の生活の面倒をみることになるの

ですが、この若き教師が松本昌次さんでありました。

「この一宿一飯の積み重ねから、耳学問の達人の庄幸司郎が育ち、万巻の

書を咀嚼し伝達する日々の荒行によって、のちの未来社編集長で、現・影書房

社主の松本昌次が育った。」

 こんなことってあるのですね。夜間高校生であった頃に大工修行をしていた

庄さんは、建築会社を起こし、それによって芸術運動家となっていくことになり

ます。

 その昔の「新日本文学」誌には庄建設株式会社の広告が掲載されていたの

ですが、それは「新日本文学会」の建物を補修などを請け負って、その未払い

の代金を相殺するための広告であったとのことです。たぶん庄建設は吹けば

飛ぶような会社であったと思うのですが、そういう会社のオーナーが文学運

動を側面から支えていたことになります。

 庄さんの遺著を紹介した松本昌次さんの文章から引用です。

庄幸司郎を喪ってみて、いかにわたしが、彼と協同した道をこれまで歩いて

きたかを、あらためて痛感している。本業の建築の仕事をはじめ、出版活動、

演劇運動、平和運動のどれもに、彼とともにかかわってきた半世紀であった。

特に彼の死によって三百三十三号で休刊した月刊誌『告知板』、本多勝一

とともに始め百六十三号休刊した月刊誌『記録』、いまは亡き井上光晴氏編

集の季刊・第三次『辺境』全十冊は、すべて彼の経済的負担によるものであり、

この本に収められた文章のほとんどは、これらの雑誌に書かれたものであっ

た。」

通り過ぎた人々

戦後出版と編集者