軽井沢といっても

 軽井沢といっても、後藤明生さんが夏の小屋をもっていた追分宿は、ぐんと庶民的
であったのでしょう。軽井沢でも由緒正しい別荘地から大学教員や文化人たちむけに
分譲されたところまで、ずいぶんといろいろなところがあるようです。
 追分宿と目にして、一番にあたまに浮かんだのは、加藤周一さんの「羊の歌」にあ
る記述でありました。後年には、「高原好日」という夏の追分でであった人について
記した本までだしています。
 ちくま文庫となっている「高原好日」は、元版が信濃毎日新聞社からでたものだ
そうで、そのせいか一冊まるまるが信濃追分を中心とする場所での人との出会いと
なっています。この本の冒頭には、前口上という章がおかれて、ここには、この本の
成り立ちと場所の説明があります。
「昔少年の頃から私は信州浅間山麓の追分村(現 北佐久郡軽井沢町追分)で夏を過
ごした。そして多くの人々に出会い、彼らとの交わりを愉しんだ。
 浅間を繞る高原の旧中山道沿いには、もと英国の宣教師たちが開いた避暑地軽井沢
があり、西へ向かって沓掛(今は改め中軽井沢)と千ヶ滝、さらに信濃追分の集落が
あって、御代田へ続く。浅間山の北東斜面は北軽井沢といわれ、早くから避暑地と
して『法政大学村』もあった。その高原で夏を過ごす人々の多くは東京から来ていた
が、職業階層は時代によって異なり、また所によって異なった(たとえば追分と旧軽
井沢)。」
 加藤周一さんは、学生時代に受験勉強のために追分で夏を過ごすようになり、逗留
先の旅館は学生の合宿所のようであったとのことです。堀辰雄などを知るようになる
のも、ここでのこととあります。
 加藤周一さんの「高原好日」には、朝吹家の人々とか、御木本隆三なんている名前
を聞くだけでお金持ちの一族の人がでてくるのですが、残念、後藤明生さんは住む世
界が違ったようで、名前を見出すことはできませんでした。