高原好日 3

 本日も加藤周一さんの「高原好日」から話題をいただきます。先日「仙台が親戚」
さんに湯川書房主 湯川成一さんは、加藤周一さんのことを尊敬していたと
書き込んでいただきましたが、湯川さんは、宇佐見英治さんのことも尊敬をしていた
はずで、宇佐見さんと加藤周一さんは、軽井沢の避暑地の縁でつながるのでありました。
 このことは、「高原好日」に記述があるのでした。
「人生には親しい交際があって当然の、しかし実際には交際の機会がきわめて稀で
あった知人があるものだ。宇佐見は、私にとってそういう人物の一人であった。
同じ時期に同じ高校と大学の学生で、戦後に文学の領域で仕事をした。共通の友人や
知人も多い。同人雑誌『同時代』の中心には矢内原伊作や安川定男戸と共に宇佐見
英治がいた。私はその雑誌の仲間にはならなかったが、ある時期の矢内原とは親し
かった。・・・・
 私は戦時中から戦後にかけて、一方に『詩と真実』を、他方に『戦争と偽り』を
対置して、世の中の移り変わりを考えていた。その立場から見ると、詩を語りながら
他方で、戦争を賛美または容認する人々が首尾一貫せず、不誠実に思われた。
『芸術は政治に係らない』という主張は、政治的現状の容認にすぎない。そこで
戦後、言論の自由が恢復されると私はかれらを『星菫派』と呼んで弾劾した。そして
長い間、宇佐見英治を『星菫派』とは決して考えなかったが、「星菫派』を容認する
者とみなしていたように思う。私が彼に近づくことを求めなかった理由の一つで
ある。」
 「1946文学的考察」のなかでもひときわ波紋を呼んだ「星菫派」についての
レッテルはりに関連してのことで、宇佐見英治と距離をおくようになったようで
すが、加藤周一からして、星菫派と呼ばれたことはあった、耳障りがよくて、
つかえるレッテルはりは、その後の、ふたりの関係に大きな影響を及ぼす事に
なったということでありましょう。