高原好日 2

軽井沢交友録ともいえる「高原好日」におさめられている「中村真一郎」さんに
ついてのくだりには、中村真一郎さんを覆っている孤独について、次のように記して
います。
「 中村真一郎は軽井沢に暮らしていた時にさえ賑やかな交際を好んでいた。
それはおそらく少年の頃からの強い孤独感と関係があったのだろう。私が知り合った
頃にはすでに両親とともに住んではいなかったし、両親について語ることもなかった。
兄弟姉妹はいない。戦後早くに文学座の女優新田瑛子さんと結婚したが、新田さんは
幼い娘を残して早くになくなった。その後幼児を育て彼の身のまわりの世話を、はた目
にも献身的にしてくれていたのは、かねてから親しかった隣家の若い夫人である。
しかも彼女も突然彼のもとから去った。」
 このあとのところで、中村真一郎さんは、詩人の佐岐えりぬさんと再婚し、この方が
献身的に中村に尽くしたが、中村の孤独感は消滅せず、彼の娘は遠くのカトリック修道
女となり、はるかに遠い国に去ったとありました。
 中村さんについて、加藤周一さんは、このように書いているのですが、加藤周一さんに
ついては、どなたが記しているのでしょうか。
 ご本人は、自らの個人的な事情ついて記するのをこのまず、そのことを友人たちは
知っているので、親しい方々はそれについて触れることがなかった。
 「高原好日」には、あちこちに、これは「羊の歌」に記したのでということがでてき
ます。羊の歌にあっても、そのことをもうすこし詳細に知りたいと思ったりするので
ありました。
 加藤さんの死後において、詳細な年譜なんてつくられることはないのでありましょうか。
たとえば、「羊の歌」にある次のようなところが、もうすこし具体的になったらと
思うのです。
「私はロンドンの娘との関係を絶とうと考えて、しばらく手紙を書かなかった。彼女は
そのことを怪しみ、仕事を休んで、突然、パリの私の住居にあらわれた。そのとき私は
寝床で本を読んでいたので、寝まきのままたって扉を開けると、小さな手提げかばんを
もって、外套の襟をたてた彼女がひっそりと廊下にたっていた。・・・彼女は後に
私の妻となり、その後の私はしばしば欧州で暮らすようになった。」
 この「羊の歌」がかかれた頃には、この方が奥様であったと思うのでありますね。