やはり「海鳴り」

 ここ何日か風邪の症状がでておりまして、体調よろしくなしです。最初は喉の痛み
で、ついですこし熱っぽくて、本日は咳がでるという状態です。関西から戻ってから
のこちらとの気温差などが影響していますか。
 ほぼ日課となっている散歩も、ここ二日ばかしはお休みとなっています。明日も
お天気は良くないとのことで、自宅での静養が続きます。
 そうした時には、昨日に届いた「海鳴り」がありがたしです。とにかく駆け足で
山田稔さんのものと涸澤さんの文章に目をとおし、次には、足立巻一さんにつながる
「夕刊流星号」について書かれた高木浩志さんの文章を読むこととしました。
 著者の高木さんは、大阪芸大文芸学科で足立巻一さんの教えを受けたかたとありま
した。文中には足立さんの小説「夕刊流星号」が刊行された1981年には、大阪芸大
三回生で、この小説がでるとすぐに購入して足立教授の研究室を訪ね、サインをも
らったとあります。大学三回生といえば、21歳くらいでしょうか。この「海鳴り」に
寄稿されているなかでは、50代といえば若手でありますね。
 足立さんが「夕刊流星号」こと「新大阪新聞」に在籍していたのは、戦後十年ほどの
ことですが、それから25年ほどもたってから、この会社についてを小説として発表する
ことになります。
 この夕刊「新大阪」は、足立さんが退社後は経営母体がかわってからも、刊行が継続
されて、完全に刊行されなくなったのは、1995年のことだそうです。
当方は地方の町で勤め人をしていたこともあり、まったく「新大阪」のような夕刊紙と
は無縁の生活でありました。
 その昔の梅田地下街などには、地下鉄の回数券をばらして販売しているおばさんと、
太い柱に掲示された大きな見出しの夕刊紙というのがあるといわれていましたが、どち
らも、当方には縁遠い世界でありました。
 高木さんは、たまたま新大阪新聞社に勤務するかたに誘われて、印刷やさんに転職す
るのですが、その印刷やさんが新大阪新聞社の業務を継承することになって、ここで
足立さんがかって在籍した会社と、高木さんは職歴でつながることとなりです。
 こういう文章を読みますと、ほんとうに足立さんの本を読み返したくなることです。
当方の足立さんの本は、あっちこっちに分散されて保管されているのですが、「夕刊
流星号」は、どこにまぎれていたでありましょう。

夕刊流星号―ある新聞の生涯 (1981年)

夕刊流星号―ある新聞の生涯 (1981年)