「古都の占領」 2

 まだ読了していないのでありますが、話の流れで昨日に引き続き「古都の占領」を
話題とします。
 日本が連合国の占領下にあったのは「1945年から1952年」とあります。当方はかろ
うじて「occupied Japan」の生まれであります。最近にこの時代に作られ海外に輸出
されたおもちゃとか陶器には「Made in Occupied Japan」と刻まれていまして、それ
は最近ではレアものとして取引されているようです。
 当方の世代は「Occupied Japan」に生まれたからといって、レアになるどころか団塊
の世代といわれ、とんでもなく人口に占める割合が高いのでありますね。
「Occupied Japan」も「団塊の世代」も、どちらも戦争の結果でありまして、戦争と
いうのは終わった後々まで、いろいろなひずみを残すものです。
 当方は、占領の時代は乳児でありましたので、当然のことまったく記憶にはありま
せんです。たまたま成長してからはUSAの軍隊が、駐留する町で暮らしたこともあり、
外国の軍隊の存在を身近に感じることができました。
 西川祐子さんが書いている占領下の労働力確保についてです。
「占領軍からは自動車整備、運転、電気工事、ボイラー修理などの日本人の技術者を
集めるようにという要請が府庁にたいしてたびたび出されている。初期の占領軍が組合
形成の奨励をしたこともあって、基地労働者の組合結成は早く、占領終了時には再就職
要求や、組合員を基盤にした新企業の創設が相次いだ。」
 当方の住んでいた町にあったのは小さな基地でありましたが、それでも基地内で働く
親を持つ友人は数多くいました。ベトナム戦争が盛んな時は、基地もにぎわって、平和
になってくると要員は整理になるということで、なんとなく雇用が不安定なようにも思
えました。もちろん、そのころに友人の父親の雇用形態とか待遇などを聞くこともなし
でありました。
 そのほかでは、「英語使用空間で働いた人々」についての記述がありです。
「占領とは多言語で書類を作成する膨大な事務労働量を必要とする事業なのだ。・・
英語文書の量からして、翻訳、通訳、英文タイピスト現地採用の数が、わたしの予想
以上に多かったことがわかってきた。・・英語使用空間で働いた人々は高学歴であり、
努力して異文化理解につとめなければならなかったため、自分の記憶の意味を考える習
慣をもつ。」
 当方が子どものことに、地域に住んでいた青年は高校をでたあた家庭の事情で大学に
進学せず、駐留軍に勤務し、そのうち英語が堪能となり、通訳として働いていました。
小学生からみると、とても輝いた存在でありました。
 そういえば、当方の友人の姉さんは、短大を卒業後米軍で働いて、そこで知り合った
米兵と結婚し、USAに渡っていました。この人の場合は、英語使用空間で働いていたら
しく、相手にも恵まれ、その後もずっとUSAで暮らしています。今よりもずっと国際結
婚というのが珍しかった時代のことでありますね。
 占領軍は知りませんが、その後の進駐軍、駐留軍というのは、今に続いている話であ
あります。当方の住んでいた町は1970年に、ほぼ米軍は撤退したのでありますが、今も
日本のあちこちに米軍キャンプが残っているのですね。もちろん、圧倒的に一番多いの
は、沖縄でありまして、残念ながら、これは当面変わることがないようです。