本日は数日前から手にしている小説を一休みして、気分をかえて司馬遼太郎さんの
「壱岐・対馬の道」を手にしておりました。
- 作者: 司馬遼太郎
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 1985/05/01
- メディア: 文庫
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社に勤務していた当時の年長の同僚の紹介からはじまります。
その方は、酔っ払ったときに「おれのゆくところはみな潰れる」といったのだそうで
す。小さな新聞社、出版社など、転じていくたびに潰れたとのことです。
とはいっても、その方は「どういう仕事でも天下の一大事のような物狂おしさで熱中」
したとありますので、けっして仕事ができなかったわけではないようです。残念なが
ら、時代の波にのることができない人であったのでしょう。
司馬さんがいうところの「対馬の人」は、青木幸次郎さんという方とのことですが、
この方のことは印象に残ることです。
「『お前、『中外日報』に小説を書かないか』
とA(青木幸次郎)はその頃、大阪の新聞社の文化部にいた私のところにやってきて、
唐突なことを言った。私は『中外日報』をずっと読んでいたが、一面は哲学的な随想で、
他の面は各教団の消息であり、小説など載る新聞ではない。
かれの新工夫であるらしかった。いずれにしても無名の私に小説を書かせる理由は
原稿料が出ないからだ、ともいった。私はうまれてはじめて新聞小説を書き、一年あま
りつづけ、のちに講談社がそのスクラップをあつめて本にしてくれた。『梟の城』とい
う小説である。」
司馬遼太郎さんのファンにとっては良く知られているエピソードであるのかも知れ
ませんが、当方ははじめて知ることでありました。作家司馬遼太郎の誕生にはこのよう
な人が関わっていたのか。
「かれは対馬人らしく朝鮮人に対してわれわれの窺い知れぬ親しみを持っており」とあ
ります。
対馬から盗まれた仏像について、これはかって倭寇によって盗まれたものであるので、
対馬に戻すことはないというのが韓国の人々の声のようです。世界のいたるところで
ある難問でありますが、ナショナリズムを抜きにして解決する手立てというのはない
ものでしょうか。彼ならどのような解決策を考えたでありましょう。