声低く語れ 3

 学生の頃に右派学生運動を行っていた人たちが、現在日本会議を仕切っていて、
現総理のブレーンとなっているというのには、驚いてしまいます。それと較べると
左派学生運動の人たちはどうなってしまったのかですね。
 右派の人たちが存在感を示しているのに、左派の人たちはどうやら就職したこと
で、すっかりスポイルされてしまったのではないかという人がいます。そういえば、
組織に属しているときには、思っていても口にすることが難しいということがあり
ましたです。
 最近の日本を代表する企業における不正事案については、自分がその局面にいた
としたら、どうしたであろうと思うことばかりであります。
今月の朝日新聞「一冊の本」に掲載の信田さよ子さんの「団塊の世代がつくった家
族」には、次のようなくだりがありました。
 信田さんはカウンセラーでありまして、信田さんにカウンセリング受ける父親に
ついてであります。
「彼らの多くは大企業の社員や公務員で、一定程度の経済力を持っている。定年を
目前に控えたり、一部は定年後を生きているが、大学生活を終えてから何十年と仕事
をしながら、仕事の言語、仕事の原則だけで生きていた。わずか四年間足らずの学生
生活と言ってしまえばそれまでだが、自己投企の激しさと理想の高さに裏打ちされた
経験の強度は比類ないものだったはずだ。
 彼らの中で連続性を問うことはないのだろうか。あの時代を生きて、その後批判対
象であった資本主義の本丸である企業でしゃにむに働いてきたこと、そのつながりを
どのように言葉にするのだろう。たぶん彼らはその連続性が言語化できないのでは
ないだろうか。意地悪く見れば、学生運動のあの形式だけのアジ演説を繰り返した
のちに、今度は企業に入って感情などという不確定要素をかなぐり捨てて、日本企業
の先兵として没頭する。そして満額の退職金を得て高額な年金とともに老後の生活を
送る。その何が問題なのか、と思っているのかもしれない。」
 これに続いて、「しかし現実はそれほど甘くはない」と続き、家庭において孤立し
てしまう父親の話となるのですが、それはさておき、こうした男たちは、シニア左翼
として目覚めるか、そうでなければ不満を抱きながらも現状容認となるのでありま
しょうか。
 それにしても「学生運動のあの形式だけのアジ演説」というのも相当に恥ずかしい
ものでありまして、これもやはり「声低く語れ」というものです。