海を渡った芸人 8

 本日は「海を渡ったサーカス芸人」を読んでおりました。9月にはいってからの
読書は、チャトウィンの「パタゴニア」「ウィダーの副王」に続いて大島幹雄さん
のサーカス芸人ものとなりますが、チャトウィンは「ノマド」といわれますが、
それをいうなら、世界をまたにかけた明治から昭和にかけてのサーカス芸人など
は、ノマドの最たるものであるようです。
 その昔からサーカスというのは本拠地を定めてはいても、ほとんどは興行のために
数日で町から町へと移動していたようです。
 「海を渡ったサーカス芸人」沢田豊さんは、日本を1902年にでて、そのまま海外で
芸人を続けて、亡くなるまで日本に戻る(故郷に錦をかざる)ことはなかったとのこ
とです。家族で一座を結成し、サーカス団と契約をしその団の構成員として芸を披露
するのですが、この本には、巻末に沢田一座の1936年から43年にかけての巡業記録が
掲載されていますが、長くて一ヶ月とすこし、普通は二週間くらいで、次の場所に
うつるようです。沢田一座が加入していたのは、かなり規模の大きなサーカス団で
ありますので、一箇所がこのくらい続いたのでしょう。小さなサーカス団では一箇所
一週間も留まればよいほうでありましたでしょう。
 沢田さんは、ドイツ人の奥様との間にこどもさんがいらして、そのこどもたちが、
みな芸人となって父親を助けていたとあります。こどもの頃からサーカス団でくらす
と、ほんと学校にいくどころでありません。
 「海を渡ったサーカス芸人」沢田豊さんは、日本で芸を披露できることを熱望して
いたのですが、それはかないませんでした。参加するサーカス団が、長期の海外巡業
にでて、それは南米から日本にまわるということになっていたのですが、南米を終え
る頃になって、サーカス団の団長は突然亡くなり、日本は軍国主義の力がのしてきて
サーカスどころでなくなり、巡業計画は白紙となったとのことです。
 それにしてもこの南米巡業がなければ、沢田豊という芸人を知ることはなかったか
も知れません。