諫早までいって伊東静雄さんにあいさつをしないわけにはいきません。
とはいうものの、当方は伊東静雄さんの世界にはまるで不案内であります。今から四十
数年も前のことですが、大学同学の人が、わたしは明日から学校へはこないからといっ
て、当方に一冊の薄い文庫本をわたしてくれました。それが新潮文庫の伊東静雄詩集で
した。どうして当方に、この詩集を置き土産のようにしていったのかは、いまにいたる
まで不明であります。大学にくるようになったのか、それともそのままやめてしまった
のか、それもわかっておりません。こうした人がぞっこんとなる伊東静雄の世界には
近づかないほうがいいなというのが、その時に感じたことです。
それはずっと続いておりましたが、庄野潤三さんの「文学交遊録」や富士正晴さん
を通じて、やっと扉をあけることにしました。
伊東静雄さんについては、諫早の研究会が立派なホームページをつくられていて、
それが参考になります。当方は時間がありませんでしたので、足を運ぶことができた
のは、伊東静雄詩碑だけでありました。
これは諫早公園内にあります。石段を何十段か登りましたら、その踊り場のような
場所に詩碑がありました。
三好達治さんが選辞、揮毫したものだそうです。
「 手にふるる野花は
それを掴み
花とみづからを
ささへつつ
歩みをはこべ 」
伊東静雄さんの詩のどこかにある一節なのだろうと思って探してみてもみつからず、
でありました。あれっと思い検索をかけてみましたら、「そんなに凝視めるな」という
詩の部分です。そんなに有名ではない詩の一節から伊東静雄さんの本質をずばりと切り
とってくるのが、さすが三好達治といわれているものです。
それにしても没後60数年となり、伊東さんの古くからのファンは、あの石段を上がる
のが大変になっていることでしょう。
石段を下りて来たところに、移設された眼鏡橋がありました。
伊東静雄さんの世界には不案内でありまして、以下のページを参考にさせていただき
ました。
「新しき古典 伊東静雄の詩の世界 http://www11.ocn.ne.jp/~kamimura/ 」
これをみましたら、次のところが目にはいりました。
「同志社専門学校高等商業部生の市川一郎(市川森一氏の父)の紹介で文学青年宮本新
治と昵懇に付き合うようになる。」
伊東静雄全集の書簡に登場する宮本さんという方は、市川森一さんのご尊父さんの
学友で、その縁であったとわかります。
諫早帰省中の伊東から福岡へ帰省中の宮本さんあての書簡には、次のようにありです。
「市川の坊ちゃんもかへってゐるさうです。毎日玉撞いてゐるさうです。」
やっぱり市川森一さんのことが気になることです。