芸術家をめざす二人が一緒になるというのは、とてもたいへんなことなのでしょう。
どちらか一人が世にでるというだけでもたいへんなのにです。
有元利夫さんの本をみましたら、その発言として「容子は俺が死んでから描けばいい」
というのが紹介されていました。奥様は日本画専攻だったわけですが、自分が画業を
続けるためには奥さんには筆を持つなといっているようなことです。
結局は、奥様は有元さんが生きているうちは作品を発表することはなかったようですが、
芸術家同士の夫婦の危うさであります。
有元さんよりも奥様はいくつか年下ではなかったかと思いますが、有元さんが芸大に
はいるのに何年かかかったために、奥さんのほうが大学では先輩でありました。
考えようによっては、エゴな話であります。
たぶん、これに近い話というのは、庫田さんと馬淵さんの間にもあったことでしょう。
馬淵さんのほうが一回りも年長でありますので、出会ったころでありましたら、画家と
しては馬淵さんのほうが有名であったのかもしれません。
草野心平さんにあてた手紙のなかに、「叕の画がなんとかなってくれなければ、私も
画をやめた甲斐がありませんと思ひましたけれど、何とかなりさうです。」というくだ
りがありまして、書かれた日付ははっきりとしませんが、これも有元夫人と同じような
背景かもしれません。
庫田さんは、1960年から三年間ほどイタリアへと単身修行にいくのですが、その旅先
の叕さんへむけて馬淵さんのお手紙からの引用です。
「今日のお手紙なんといふうれしさで拝見したことでせう。何だか胸だかどこだかが
重くなって泪が一杯つまってきました。本当にどんなに長い間その自信を私は待って
いたかあなたもご存知ですものね。そこまで行って苦労なすった甲斐がありましたわね。
ほんたうにおめでたうございます。・・・・
本当によございました。私にいまどんな詩のよいものが出来ようとあなたの画業に
手ごたへがなかったらやっぱり私はいやです。古風な考えかもしれませんけれど、
あなたによい画をかいて戴かうと思ったことが第一で、自分の仕事は第二に考えて
しまふやうにいつかなっていた私には、第一の目的が第一に達せられることほどうれし
いことはございませんものね。
何度も申上げませう、おめでたうと。」
「馬淵美意子のすべて」におかれた文章の最後のものは、上に引用した書簡でありま
す。馬淵さんが生涯をかけて生み出そうとしたのは、絵画や詩ではなく画家 庫田叕
さんであったようです。