売る 捨てる 寄付する 2

 本の処分についてですが、当方が持っている本で値段がついて売れるものは、どの
くらいあるのででしょう。単行本でありましたら、一冊10円くらいにはなりそうです
が、たいへんな思いをして持ち込んで10円というのであれば、誰かにもらってもらった
ほうが良さそうですが、貰ってくれる人を見つけるのがまたたいへんとなります。
 そういえば、以前にほとんどお付き合いのない女性(知人の友人という関係)から、
これをもらってもらいたいということで、大切にしていたと思われる本を贈られたこ
とがありました。なぜ当方のところにでありますが、たしか次のようなことでありま
したでしょう。
 その女性が体調を崩して、療養生活にはいることになり、当方の知人から何か本の
差し入れをしたいといわれ、当方がもっているものから、次のものを貸したことがあ
りました。

 「玩草亭百花譜」ですが、その当時は文庫本もすでに品切であったと思います。
これをとっても喜んでくれて、その後に、古書で確保してお渡ししたように記憶して
います。
 当方のところに貸してあった本が戻ってきた時に、これを受け取ってほしいといわ
れたと知人を介して届いた本は、当方は絶対にといってもいいほど手にしないもので
ありました。
立原道造詩画 (1979年)

立原道造詩画 (1979年)

 この本は定価2万円とありました。これを当方に下さった方は立原道造さんの世界が
好きであったのでしょう。
 この本に序を寄せた中村真一郎さんは、次のように記しています。
「私は福永が、立原の画集に解説を附するという企劃を聞いて、立原と福永の両方の
ために嬉しかった。二人とも私にとっては、生涯忘れることのできない、そして私自身
の青春期における自己形成に最も影響を及ぼした人である。・・・
 生前の立原は、私の推奨にもかかわらず、頑として福永の仕事を認めなかった。
また若い福永も、私とは異って、立原のやわらかい日本語の、幾分ぎこちない新しい
表現や、又、ゆるい形式的感覚に対して、強い批判を抱いていたことは事実である。
 定型詩の実験者である福永にとっては、立原の無韻、不定律の十四行詩を、ソネット
として受け入れることは、当然ながら不可能であった。
 しかし、立原没後四十年にして、福永は立原のパステル画のなかに突如として、共感
をうながすものを発見し、そして自らすすんでその画集に解説の労をとろうとするとい
う。
 私はこの生前、相会わぬまま相互に不信を抱いていた、私にとって最も大事な二人が
今、この画集のなかで相擁する光景を目賭するという、世にも稀な幸福な情景に、生涯
の晩年に及んで、立ち会うことができたのである。
 いや、できた筈であると、つい昨日まではそう信じていた。
 ところが、福永の病は突然に重篤を迎え、そしてそのまま世を去ってしまった。
彼はその生命と共に、私の待ち望んでいた美しい期待をもあの世に持ち去ってしまった
のである。」
 中村さんによる文章は、1979年8月中旬に記されたとあります。福永武彦さんが亡く
なったのは、1979年8月13日のことで、この本の刊行は奥付には79年9月28日とありま
す。
 この本を当方に託したかたは、数年前に亡くなられたのですが、なかなかこういう
いわれの本は捨てることができないことです。