現代新書50周年 3

 現代新書といいながら、渡辺一夫さんのエッセイを話題にです。最初に手にした現代
新書が渡辺一夫さんのものであったろうと思うことから、そのような展開となりました。
「寛容と不寛容とが相対峙した時、寛容は最悪の場合にあ、涙をふるって最低の暴力を
用いることがあるかもしれぬのに対して、不寛容は、初めから終わりまで、何の躊躇も
なしに、暴力を用いるように思われる。今最悪の場兄とと記したが、それ以外の時は、
寛容の武器としては、ただ説得と自己反省しかないのである。従って、寛容と不寛容に
対する時、常に無力であり、敗れ去るものであるが、それは恰もジャングルのなかで
人間が猛獣に喰われるのと同じことかもしれない。ただ違うところは、猛獣に対しては
人間の説得の道が皆無であるのに反し、不寛容な人々に対しては、説得のチャンスが
皆無ではないということである。そこに若干の光明もある。
 人間の歴史は、一見不寛容によって推進されているように思う。しかし、たとえ無力
なものであり、敗れ去るにしても、犠牲をなるべく少なくしようとし、推進力の一つと
しての不寛容の暴走の制動機となろうとする寛容は、過去の歴史のなかでも、決して
ないほうがよかったものではなかった筈である。」
 1951年に渡辺さんは、このように記しているわけでありますが、最近の風潮などを
見ますと、「不寛容な人々対しては説得の道が皆無であるのに反し、猛獣に対しては、
説得のチャンスが皆無ではないということである。そこに絶望の深さもある。」と
なるのでしょうが、そんなに簡単にへこたれていてはいけないのであります。
 このエッセイでは、過去のキリスト教における不寛容のことなどが紹介されていま
して、その時代の不寛容の代表格としてソビエトロシアのことが頭にあったようです。
この時代でありましたら、隣国の人民共和国とイスラム国のことが思い浮かびます。
「現実には不寛容が厳然として存在する。しかし、我々は、それを激化せしめぬよう
に努力しなければならない。争うべからざることのために争ったということを後に
なって悟っても、その間に倒れた犠牲は生きかえってはこない。歴史の与える教訓は
数々あろうが、我々人間が常に危険な獣であるが故に、それを反省し、我々の作った
ものの奴隷や機械にならぬように務めることにより、はじめて、人間の進展も幸福も
より少ない犠牲によって勝ち取られるだろうということも考えられてよい筈である。
歴史は繰返す、といわれる。だからこそ、我々は用心せねばならぬのである。」