西游日録 7

 「西游日録」はパリを発つ1964年10月29日(木)の日録で終わりとなります。
 パリのホテルから空港までは「通商代表部に派遣されて来ている上野君」が送って
くれることになったとあります。
 パリで窪田啓作さんにあうのは最初からの予定でありますが、この上野君というの
は、パリで初めて面識を得た方だそうです。
「十月十三日(火)。晴。朝のうちに意外な電話あり。大使館の上野といふものだが
と名のって、東京にゐるうちに早く逢ふはずのところ、ついそのをりをえずに過ぎた
が、パリ滞在をいいしほに、近日中にドライブに案内したいといふ。はなはだ鄭重な
御挨拶であった。わたしはこのひとの名すら聞いたことがない。」
 上野君との最初の出会いは、突然にかかってきた電話であります。上野君とは誰で
あるかです。
「問ひかへすと、これはなんと故太宰治君の長女園子さんの御亭主と知れた。わたしの
ゐるこのホテルは窪田君から先方につたへられたやうである。のちにその窪田君に聞く
と、上野君は大蔵省からパリの通商代表部に派遣されて来てゐるひとで、当地での資格
は大使館二等書記官ださうである。」
 この四日後に、上野君夫妻とドライブに行くことになります。
「上野君はもとより、園子さんも童女のころにちらとみかけただけなので初対面にひと
しい。しかし、とたんに旧知のごとく気がおけない。」とあります。
 夷斎先生は、上野夫人である園子さんとは、どの時点であっているかです。
十月二十四日の日録に、次のように記されています。
「ホテルに戻って、かねて約束の上野君夫妻の来るのを待つ。しかるに上野君は公用の
ため他出とあって、園子さんがひとり車をうごかして来てくれた。すなはち、ともに
オペラ座に行く。小屋にはひるまへに、ちかくの中華料理の天下楽園にて食事。・・・
かって太宰君の通夜の席にはわたしもつらなったが、そのをりいたいけな童女のちら
ちらするすがたをみかけたおぼえがあった。その童女が成人して今日の上野夫人で
ある。」
 1948(昭和23)年に太宰治が亡くなった時、長女園子さんは小学校1年とあります。
再会はその18年後でありますので、結婚してまもなくでありましょうか。上野君は、
その後、奥様の姓をついで津島を名のるようになるのですが、いま国会議員となって
いるご子息のプロフィールをみますと1966年パリに生まれるとありました。
 なるほどな。
 「西游日録」の最後におかれているのは、つぎのことばと短歌です。
「北まはり東京行の飛行機は一時間おくれで立つ。おそらく無事に羽田に着くだろう。
復帰といふこおてゃ避けがたいものか。他に行くすべなければ、元のところにかへる
ほかない。
 かへりゆきてふるさとびとになにみせむひらけばかなしてのひらの空   」