本日も石川淳さんの「西游日録」からです。
夷斎先生の旅行日記を、駆け足でのぞいています。ずっと、これの元版(限定千部)
は高額本でありました。当方が購入したときは、すこしは安く買ったように思うので
ありますが、それでも刊行時定価千三百円の四倍くらいではなかったかと思います。
昭和40年にでたものですから、最初にその本を求めた方たちは、そろそろ鬼籍にはい
られたかで、限定千部のわりには古本市場に出回っているようです。いまでは最安値
が当時の定価の二倍までもしないのですから、その昔の値段を考えると捨値のように
も思えます。
「西游日録」十月六日のところから、冒頭部分の引用。
「ホテルに一週間分の勘定を支払って、パリに来てから早くも一週間になることをさ
とる。このところ日付の観念がぼんやりとしてゐる。ただはっきりしてゐるのは、
今日は明治初年ではないといふことだけである。洋行は明治初年にかぎった。外国に
行くと、たれでも大小の先覚に化けてかへって来るほかなかったのではないか。
具体的にいへば、たとへば日本では見られない本を仕込んでかへるということにあっ
たのだらう。洋行といふことばが今日では滑稽にしかきこえない死語となったのは
当然である。外国との往来はもはや先覚の生活の場ではありえない。いや、先覚と
いふ優長なものはすでに完全に浮きあがってしまったやうな、すなはち現在といふ
みじかい時間の切盛だけでていっぱいであるやうな時節に、われわれはめぐりあはせ
てゐる。新刊書なんぞといふ紙屑はどこからでも一冊いくらのハシタガネで任意に
取寄せることができる。そして、取寄せた本を読まないですませることもできる。
著者はみな現在専門の俊傑ぞろひと見えて、末のことまで心配した迂遠な本は一冊も
ない。
未来にかかはる憂患を必要としない世の中となって、カセギ屋はカセギの道に、
ナマケモノは疎懶の道に、おのおのこころざすところにいそしませるに至ったのは
文明の進歩といふものか。わたしごときも日本にゐながらフランスずれのした
ナマケモノの片割のやうだから、さきの雁がさんざん荒したあとのパリといふ田圃に
今ごろまぎれこんで来ても、身のため国のためになるやうな斬新奇抜な発見なんぞ
はおもいもよらない。すでに発見されてゐるものを確認しえたとすれば体験もいい
ところだらう。このナマケモノ体験はひまをもてあましたやうに見えながら存外いそ
がしい。」
夷斎先生、この時65歳であります。
- 作者: 石川淳
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1965
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