西游日録 5

 本日も石川淳さんの「西游日録」からです。
 石川淳さん一行が、モスクワからベルリン、プラハを経て最終目的地であるパリに
着いたのは9月28日とあります。
 ベルリンでは出迎えの人が見えないとありましたが、パリでは出迎えがありました。
「毎日支局からの連絡に依って、留学生 海老坂武君が迎へに来てゐてくれた。
このひとは大江健三郎君の友だちである。」
1964年でありますからして、まだまだ留学生も少なかったでしょうか。
「夕方、窪田啓作君ホテルに来訪。すなはち、安部(公房)木村(浩)海老坂の諸君
みないっしょに、ほどちかいシャンゼリゼのレストランにて乾杯。」
 これが到着した日のことであります。
 次は翌日。
「九月二十九日(火)晴。午前中、フォープール・サントノレなる東京銀行支店に
窪田啓作君を訪ふ。旅行者チェックをフランに換へる。二百ドルにて九百七十フラン
・・わたしは東京出発以来髪を刈ったことがなかったので、ちかくの床屋まで窪田君
に案内してもらふ。」
 窪田啓作さんは、カミュ「異邦人」の翻訳で有名でありますが、本業は銀行員であ
りました。早くにパリに転勤し、そのまま定年退職後もパリに残った方のようです。
窪田啓作さんは、加藤周一さんの友人としても知られ、加藤さんの「羊の歌」には、
次のように登場します。
「赤堤の家には、何人かの友人たちが、いわば類をもって集まることがあった。・・
本郷の大学の法学部に通っていた窪田や中西は、マラルメに熱中し、・・
窪田はカトゥルスやロンサールの恋愛の詩のなかに、『古今集』以来の恋歌の反映を
見出していたのであろう。・・・
 いくさは私たちの戸口まで迫って来ていた。詩を書いていた仲間のなかで、福永が
まず健康を害し、まもなく結核療養所へ去った。・・・窪田は、銀行員として、上海
の支店へ出かけた。結婚していたが、妻子は東京に残した。」
 戦後まもなく窪田さんはパリにわたり、加藤周一さんもまた1951年には留学でパリ
に滞在することになります。(「羊の歌」のパリ滞在のくだりで、窪田さんに言及し
ているところはないようです。)
 夷斎先生が、「窪田君と寄がきのたよりを東京なる加藤周一君におくる。」とある
のは、加藤周一さんと窪田さんの交流のことを考えますと当然のことであります。
 最近に窪田啓作さんの名前を見ましたのは、中野書店「古本倶楽部」に「窪田啓作」
署名本九冊がでていたことによります。古くからの友人に贈ったもののようであり
ますが、そのなかには「短編集 街燈」平凡社 私家版 1990年11月30日というのが
入っていました。窪田さんには、このような著作があったのを初めてしりました。
いまほど検索をしてみましたら、日本の古本屋には、これがそこそこの値段で販売
されていました。( 角川文庫の石川淳「普賢」の解説は窪田啓作さんになってい
ました。)
 このようにしてみていきますと、もうすこし窪田さんのことを知りたくなること
であります。