写真編集者 9

 写真を専門とする編集者であります。ちょうど日本の高度成長の時期と重なり、
コマーシャル写真の分野で活動する若手の写真家の作品に、思い切ったページ数を
さいて、一時代を築いたというのが、「カメラ毎日」の山岸章二さんでありました。
「彼は、写真家とは仕事を超えて付き合い、彼らの私生活にまで踏み込んで関係しよう
とするところがあり、これに対してはこれを嫌う者とそうでない者の差が極端にでた。
いずれにせよ、極めて日本的な湿気の多い関係性を持った人だったから、多くの写真家
を世に出したとともに、多くの写真家に疎まれた。
『俺の葬式には誰も来やしねえよ』と言っていたが、1000人近い写真関係者が弔問に駈
けつけた。その中には、車いす土門拳の姿もあった。」
 山岸さんが亡くなったのは1979年7月とのことです。
 その一年前には、編集長をつとめていた「カメラ毎日」の販売不振の責任をとる形で、
49歳で毎日新聞社を退職したとあります。思いきった企画を、上司に内緒で独断で通し
た時は、退職願いを懐にことにあたったとありましたが、それによって天皇と呼ばれる
までになったものの、部数減という現実を前にして、自ら切り開いた路線の変更に賛成
することができなったようです。
「私は、今の人たちによくわかってもらいたいことがあります。それは、こういう覚悟
がなければ、写真だけでなく何もできないということです。『クビを覚悟』とは大半の
人が企業など組織の人だから言っているのですが、そうでなければ路頭に迷う、あるい
は飢餓になる、死を覚悟でやるというくらいの覚悟がなければ、例えば『ニコンサロン』
をひとつだって作ることはできないということでしょう。」
 最後に引用したくだりは、西井一夫さんが亡くなるひと月前にホスピス病棟にあって、
口述による「写真編集者」のあとがきからです。
 山岸さんは、「カメラ毎日」の編集長を降りて、会社を退職し、それから一年で自死
を選びました。
 西井さんは、山岸さんの次の次となる編集長となるのですが、89年4月号を持って
終わらせてしまったと記していますが、西井さんは、病に倒れて2001年11月に亡くなり
ました。
 この本は、本当の意味で西井さんの遺著なったものです。
それにしても、このような編集者を知ったというのは、鬼海弘雄さんの「世間のひと」
のおかげでありました。「世間のひと」のあとがきをみますと、鬼海さんも山岸さんの
目にかなって、「カメラ毎日」に登用されたということがわかります。

世間のひと (ちくま文庫)

世間のひと (ちくま文庫)

写真編集者―山岸章二へのオマージュ

写真編集者―山岸章二へのオマージュ