写真編集者 8

 山岸章二さんは、写真雑誌業界では天皇とよばれたとのことです。
雑誌「話の特集」1972年8月号に写真家浅井慎平さんが「公開書簡・拝啓 山岸章二
殿」という文章を寄稿しています。(この文章は、西井一夫さんの「写真編集者」に
収録されていて、当方はこれではじめて目にすることができました。)
 この時、浅井慎平さんは35歳くらいでしょうか。浅井さんの文章の冒頭部分には
次のようにあります。
「写真界の天皇と呼ばれているあなたに駆け出しの写真家の僕がこのような場で手紙
を差しあげるのは正直に言えばいくらか気後れするのです。けれども手紙しなくては
いられなくなりました。あなたは天皇と呼ばれています。この言葉にはユーモアの
影はなく、いわばあなたの持つ権力に対して付けられたものだと察します。それが
いつの頃だったかは僕は知りません。僕が写真を始めた頃ですからもうかれこれ十年
近くもなるでしょうか、もうそのときには山岸さんは天皇と呼ばれていました。
その後、何年かして僕はほんとうに恐る恐るあなたの前に出かけたものです。」
 この公開書簡が発表された72年は、山岸さんが「カメラ毎日」副編集長となった
年ですが、そのかれこれ十年前というのは、西井さんが書いていた「63年以来、本来
デスクが握る台割の権限を実質握ってきた」ということをいうのでありましょう。
浅井さんは、この書簡で「選ばれて『カメラ毎日』にのるものが、選ばれるものに
ふさわしいか」と、山岸さんの目利きに疑問を呈しているのであります。
 山岸さんの天皇もふさわしいエピソードで、西井さんが紹介しているものとして
次のものがありました。
「彼が豪語していたことがあって、輪転機が回っている側までいって、職人と話を
して止めさせられる編集者は自分と『暮しの手帖』の花森安治だって。要するに写真
を撮らせるところからそれがでていくところまで、全工程に関わってチェックして
いくというのがあの人の原則でしたね。だから信用される。
 写真家がこの赤が大事だと言えば、その赤がでるまで印刷屋の輪転機を止めさせて
までやる人間だから。嫌われる人間にはものすごく嫌われるけど、信頼されるところ
で徹頭徹尾信頼されましたね。」
 山岸天皇は、育てた写真家と同じくらいつぶしてしまった写真家がいたのでありま
しょう。骨のある浅井慎平さんは、たもとをわかつことで生き残ることができて、
この文章をあらわしましたが、無念な思いで姿を消した写真家も多くいたのと思われ
ます。