写真編集者 6

 先日に新聞社の出版部といえば、川本三郎さんの「マイバック・ページ」を思いだす
と記しましたが、タイミングよろしで「マイバック・ページ」がでてきました。
「1969年4月、私は『週刊朝日』の記者になった。大学を卒業し、一年間、就職浪人を
して記者になった。まだ二十五歳だった。可能性は無限にあり、なんでも出来るんだと
いう若い気負いがあった。・・・
 同期は五十人ほどいた。このうち当初から出版局(『週刊朝日』『朝日ジャーナル
アサヒグラフ』等の雑誌編集)に配属されたのは私とU君を入れて四人だけだった。
 前述したように新聞社のなかで出版局は主流ではない。意欲的な人間はみんな新聞の
社会部や政治部を希望する。だから出版局への配属が決まったとき人事部の人が私の
ところに来て『出版局に決まったからといって気を落としてはいけない。いずれは
新聞のほうへ行くチャンスもあるから』といった。私はじあめから社会部に行って殺し
や火事の取材をするより出版局で雑誌の編集をしたいと思っていたので、この人事部の
人がはじめ何をいおうとしているのかわからなかった。」
「マイバック・ページ」のあっちとこっちにある文章をつないでみました。
前述というところには、「社会部や政治部の記者は、雑誌記者に対して優越感を持って
いた。」とあります。奇妙に納得することです。
 そして、このようなことは、朝日新聞に限らずで、毎日新聞においてもそうであった
のではないでしょうか。
 西井さんの「写真編集者」に戻ります。
「(山岸さんは)もともと文章の人ではなく、実際に毎日新聞にはカメラマンとして入っ
た人です。だから編集者としては、物書きに不足していたという部分があり、コンプレッ
クスもあったと思います。・・・・・
『カメラ毎日』の六十三年の何号かで題字のスタイルとともに、中身も大きくかわるんで
すが、実はその号から山岸章二という人間が、雑誌のグラビアの支配権、つまり台割
決める権利をもった時代がはじまったのです。その号を見ると、突然、篠山紀信や横須賀
功光大倉瞬二など、いわゆるコマーシャル系の人達の写真が出てきて、それ以降、
コマーシャル畑の写真が続くという形になります。なぜ、そうなったのか私は聞いてない
から知りませんが、私が山岸章二という人の凄さを認識したひとつのエピソードがありま
す。」
 山岸さんは新聞社にカメラマンとして入った方とあります。新聞社のカメラマンという
職種が、どのようなヒエラルヒーにあるかわかりませんが、記者よりもすこし下にみられ
ていたと思われます。そして西井さんは、編集者として出版局にはいったのですから、
傍流の傍流ということになりますが、こうした人材が支えるというのが、新聞社の出版局
であるといえましょう。