写真編集者 5

 西井さんにいわせると山岸さんが目指したのは既成の「写壇」の解体であったとあり
ます。当時の写真世界(これを文壇にならって「写壇」といっているわけです。)の
見取図は、次のようになります。
土門拳が提唱したリアリズム写真という一つの集団的なヒエラルキーがあった。
もう一個は後に二科の写真運動というのになっていくもの。秋山庄太郎とか林忠彦
筆頭にする、いわゆるキレイ写真ですね。そういう大きく二つの流派みたいなのがあっ
たのです。『カメラ毎日』自体にもこういう二つがコンテスト制度というものを通して
共存していたんだけど、どっちも壊しちゃおうというのが山岸さんの思っていたこと
みたいですね。」
 編集者 山岸さんがいうところの「第三の道」はあるかであります。
第三の道」の種明かしをすれば、なあーんだというようなことになるのであります
が、時代は今から五十年も前のことです。
「どちらでもなくて当時非常に力を感じさせたものがコマーシャルの分野だったんじゃ
ないか。で、とりあえずそこからはじめるということで、六十年代の初めというのはまず
若いコマーシャル写真家を多用して、彼らの撮った写真を見せるというところでやって
いったんだろう、と思うんです。」
 日本が高度成長まっしぐらの六十年代初めのことです。
 広告の世界には「若くてイキがよくて、何かしたいというカメラマンがゴロゴロして
たんでしょう。金がつかえるところに人材が集まるわけです。」となります。
 才能がある若手カメラマンはコマーシャルの世界で重宝されたとありますが、そうし
た若手に、自分の撮りたい写真の発表の場を提供するというのが、山岸さんが写真編集
者として名をなしていく第一歩であったとのことです。