鬼海さんの先生である福田定良さんが林達夫著作集研究ノートに寄せた文章を話題
にしています。
昨日には「率直に書くのが、福田さんの流儀」と記したのですが、率直なことと
わかり良いこととは別でありまして、どこにも難しい言葉は使われてはいないことも
あって、すーっと読めますし、頭にもはいっていくのですが、わかったかというと、
これがわかるといえないものなのであります。
思わず、この「身にあまる不仕合わせについて」という文章をメモをとりながら
読んでやりましょうかと思ったのですが、それは「ねころんで」の流儀ではありま
せんですね。
この文章は、林達夫さんの思想界における立ち位置を記しているのですが、根っか
らの洋学派であると林さんを位置づけると、その分、自分との距離があることを感じ
ずにはいられないというような内容のものです。(うんと端折っていえばです。)
「哲学的な文化が健全にそだつには、それにふさわしい地盤がなければならない、と
いう予感は学生時代からいだいていた。それは、西洋的なものの考え方がなかなか身に
つかない私の劣等感に由来するものだったが、当時の哲学者たちのなかに、かなり無理
して西洋の学問を身につけているようにみえる人がすくなくないという事実もその予感
をつよめるものとなった。・・・
私が西田幾多郎や和辻哲郎を含む当時の日本の哲学者たちの仕事を一応うたがって
みることができるようになったのは、林先生のおかげであった。このばあい、先生が
ご自分の哲学理論をもっている哲学者でないということが私の気もちをのびのびとさせ
てくれた。・・
だが、奇妙なことに、私は、無理して勉強しているようにみえる哲学者たちの方に
親近感をいだかざるをえなかった。極端な言い方をすれば、彼らは日本人だったが、
先生はかんじんなところで日本の外に身をおいているような感じがした。林達夫という
学者の正体ははっきりしなかった。それどころか、私は先生にとって縁なき衆生のひと
りでしかないという思いは日とともにつのる一方であった。」
林達夫さんは、明治の帰国子女であります。帰国してから過ごしたのは父親の故郷で
ある福井とのことですが、そこでは出来るだけ土地の子どもに同化することを心がけた
とあります。この時代に無理せずに洋風のスタイルが身に付くなんてことは、それは
それで孤独なことであったようです。