世間の人 13

 それにしても「身にあまる不仕合わせ」であります。普通でありましたら、身に余る
といえば、光栄とかお言葉というのが下につくのでありまして、ここに不仕合わせが
くるというのは、破格であります。
「私の独断かもしれないが、今日、先生のように無理をしないで考えることができる
ような学問をしている人は、そんなにたくさんいるはずがないような気がするのである。
そうだとすれば、この著作集の読者は、先生の文章に学問のたのしさを味わう仕合せを
感じてばかりはいられなくなるのではないか。私のように先生との精神的距離のはな
はだしさを思い知らされ、この不仕合わせを機縁とすることによって、あらためて学問
をするということについて考えてみてもいいのではあるまいか。
 すでに述べたように、私は教室でこの不仕合わせを体験した。これは私にとって仕合せ
なことであったが、だからといって、この不仕合わせな体験を読書によってかさねよう
とは思わないのである。」
 以上に引用しているのは、ほとんど福田定良さんの文書の最後のくだりとなります。
著作集に寄せる文章としては、ずいぶんと奇妙なものであります。まあ逆説的とでも
いいましょうか。
「だが、先生の本を読みたくないということは、無関心だということではない。それ
どころか、私はコピーを読んで我が身の不仕合わせを味わうかたわら、幾度となく勇気
づけられた。私が先生の眉をひそめさせる俗物であることを思い知らされるのはつらい
ことだったが、学問とはこのようなものかとおもわされることはたのしいことだった。
この不仕合わせな糸と仕合せな糸とでどんなものが織れるかが私自身の問題である。
 そうだとすれば、これからは、私の喜劇的な作業がほんとうに喜劇的なものとして
進んでいるかどうかたしかめるために、先生の本を読むようになるかもしれない。」
 鬼海さんの先生、福田定良さんという方は、このような思考をする方でありました。
林達夫という圧倒的な存在に対して、どのように対峙して、自分の思想を確立するの
かであります。
 鬼海さんも、福田先生からきびしく鍛えられたのでしょうか。