馬淵美意子のすべて 9

 馬淵さんは詩人でありますが、エッセイなどものぞいてみました。
「一つの思ひで」とタイトルされたものです。(この馬淵さんの本は、初出などの記載
がないことで、ちょっと残念です。)
いつどこに発表をしたものかはわかりませんが、これには草野心平さんと高村光太郎さん
が登場します。
草野心平氏が第一、高村さんとか親爺で、決して先生とは呼ばなかったし、また私達
も、遥かに上の人間として敬愛するその人に、髪結さんや指圧師と同じ先生は、一々そ
れと意識しないまでもおのづからな感覚が許さなかったらしい。」
 このへんが馬淵さんの発想でありましょうか。髪結さんや指圧師さんを先生と呼ぶのは
いいが、それと同じ呼称で高村光太郎を呼ぶことはできないということになります。
なるほどなです。
「太平洋戦争の政権の宣伝部にいた草野氏が、ちょっと帰国されたのを歓迎するため、
高村さんを主賓にして庫田叕と私との四人、新橋のある料亭で飲んだのに始まります。
酒が廻って、と言っても私はあんまり飲めないのでしらふでしたが、とに角、みんなで
くつろいできて話の辷りがよくなった時分、高村さんは不意に少し改まった格好になら
れ、思ひがけない訓戒を説かれたのでした。画商やF君なんかに躍らされてると飛んでも
ない事になる。よい仕事をしようと思ふなら乞食になれ乞食に。僕は画商に縁がない。
この間も奈良で良質の古木を見つけたから好きなものを彫ってみないかとQ堂に言はれた
が断った・・・煎じ詰めればこんな風な内容ですが、・・この時も、転ばぬ先の杖だな、
と親の説教のやうに承り、そこに漂っていた勘気とも言ふ気配に気づいたのは、帰途、
あれはおもに君への事だよと叕に言はれてからの話でした。」
 高村光太郎はもともと木彫家でありますが、詩人として名前が残っているのは、この
ようなことが影響しているのでありましょう。
このように高村光太郎に言われた時には、すでに馬淵さんは画業を捨てて、詩作へと
方向を変えていたようであります。