高知つながり 6

幸徳秋水の甥 幸徳幸衛さんは、秋水に伴われてアメリカに渡り、秋水が刑死した時は
アメリカでホテルの皿洗いなどをしながら、主として絵の勉強をしていたとあります。
その後、居をパリに移して本格的に絵に打ち込んだということです。サロンで入選した
ということも聞こえてきたので、画家として立つことが期待されたのでしょう。
「さういふときに、おびただしいタブローが中村の幸徳家にとどいた。その中には、
サロンに入選した絵も交ってゐた。幸徳家の人や、幸衛さんを知ってゐる中村の人々は
一日千秋の思ひで幸衛さんの帰国を待ちわびた。錦を飾ってかへるものとしてほめあげ
た。いよいよかへったところを見ると、ひどいアルコール中毒で、酒がなくては一刻も
がまんがならない。洋服はボロボロで、まるで乞食のやうである。人々はがっかりした。
まさしく死影である。旅券も紛失して、アメリカへ帰ることができない。」
 上林さんは、幸徳幸衛さんの足跡を訪ねるなかで幸衛さんの作品を購入することにな
ります。
「私は幸衛さんの室戸岬の絵を一つ持ってゐる。この絵はおよそ二十年前、幸徳家の
当時の当主富治(死亡)から、三月の月賦で買ったものである。いくらで買ったものか
おぼえがない。岩石が乱立して、それに波が巻きかへしてゐる。実にリアリスチックで
あるが、どこか知ら物足りない。」
 画家としてメジャーになるためには、いまひとつ問題をかかえていたようであります。
土佐でパトロンに庇護されてくらしていた幸徳幸衛さんでありますが、「晩年、幸衛
さんは阪神間を絵を書いて放浪した。湯たんぽでやけどして、そこからバイキンが
入って、それがもとで死んだ。葬式は大阪の阿倍野斎場で行はれた。昭和8年2月16日
没。行年四十四歳。」
 汚名をきせられた幸徳家にとって、パリで成功をおさめたと聞こえてきた幸衛さんの
活躍は、名誉挽回のための期待の星であったのでしょう。事件の前から外国に暮らし、
国内にはいなかった幸衛さんにも事件がずっしりとのしかかっていたのですね。
 上林暁さんは、どこにも大逆事件についての見解を記していませんが、「四万十川
幻想」にある次のくだりをみますと、幸徳秋水さんについて、どう思っているかは
よくわかります。
「四、五年前、私の文学碑が中村市に建った。郷土の大先輩である幸徳秋水ですら
まだ碑がないのに、自分の碑を建てるなんて僭越だ、と心の中で思ったが、病気である
私を力づけようとする郷里の有志や同窓生たちの好意を思ふと無下に断るわけにはゆか
ぬ。結局好意に甘えることにした。」
 この時点において幸徳秋水復権はできていない(いまもそうでしょうか。)と
なると、上林さんは郷土の大先輩について作品のなかで紙碑を築くしかなかったので
ありましょう。