山の子供 5

 畔柳二美さんのお父上がどのような経歴の方かはわかっておりませんが、明治期に
おける電気技術者ということですから、当時としては特別な経歴の方であることに、
違いありません。
 支笏湖に端を発する千歳川流域には、あわせて5つの水力発電所が作られるので
ありますが、畔柳さんのお父上は、そのいくつかの建設に関わっていました。
「山の子供 一」には、次のようにあります。
「私の家は、十軒のうちの一番右端で汽車のレールに近い場所だった。そのころ父は、
同じこの川に工事中の第二発電所に長期出張中だった。」
 この第二発電所が完成して発電を開始し、まもなく畔柳さんは、別なところへと
移ることになります。
「その山の中の発電所の人々の移動が、急に烈しくなったのは、それから二年目の春
ごろから夏にかけてであった。同じ会社で、今度は、この川とは別の川に新しい発電
所を建設しはじめたからである。一週間に一度、或いは、十日に一度、『ピーポー』
の汽車が森林のレールを縫ってきては、移転者の家財道具と家族を運んで町へ走り
去った。そのたびに、上の社宅の人々も、下の社宅の人々も、宮様をお迎えしたとき
と同じように、日の丸の紙の旗を打ちふって汽車まで見送った。・・
 私たち一家が、その発電所から転任になったのも、その春であった。」
 新しい発電所は、「ピーポー」の汽車と大きい汽車をのりついで十時間のところに
あったといいます。
 「山の子供 二」というのは、この新しい発電所での生活を描いた作品ということ
になり、この地から札幌の女学校に進学することになります。
 当方は、こちらの新しい発電所にはなじみがありませんので、「姉妹」時代には、
すこし気持ちへだたりがあります。