学問の春 10

 山口昌男さんの平凡社新書「学問の春」には目次に続いて「東南アジア南東部
地図」が掲載されています。スマトラ島からニューギニア島にいたる地図ですが、
この本のなかで話題となるのは、インドネシアの島々です。
 山口さんが最初にフィールドにはいったのはナイジェリアの大学にいたときで、
その時の著作は「アフリカの神話的世界」となるのですが、これは1966年頃と
ありました。次にフィールドにはいったのがインドネシアとなるのでしょうか。
ブル島というところにはいりますが、これは1974年とあります。
『このブル島に調査をしに行くためには、日本を発ってまずシンガポールに行って、
ここで飛行機を乗り換えてジャワへ行く、ジャワ島のジャカルタからバリ島の
デンパサルを一回経由して、スラウェシに飛んで、そこから島に渡るという経路
なんですね。・・・ところが、実際インドネシアに到着すると、ブル島には共産党
の収容所があるから、調査に入ろうとしても許可がおりないだろうと言われた。
要するに、1965年インドネシア共産党が反乱を起こそうとしたといって政府軍
による共産党狩りが行われて、共産党員がこの島に流刑されていたわけす。
そういう島ですから、外国人の調査者は一切入れないということになっていた。」
 このブル島には、いろいろな偶然と幸運が重なった調査に入ることができる
ようになるのですが、ここではフランス語を自由にしゃべる木材会社の社長と
知り合うのですが、その方が母はインドネシア人で父親は日本人であるという
ことを聞いて、その社長の父親さがしを頼まれたりするのでした。
(この父親探しは、ずいぶんとたってから「週刊新潮」の「掲示板」にのせた
ところ、そういう人を知っているという連絡があったということです。)
 山口昌男さんは、自分を冒険団吉にみたてたようなイラストを描いていますが、
このブル島へとわたる話しを読みますと、相当な冒険談であることには違いあり
ません。
 2000年12月に刊行された文藝春秋刊「私の死亡記事」に山口さんは、次の文章
を寄せています。
「 山口昌男 享年不明 インドネシア・ブル島の山中海抜七百メートルの地点で
土地の人間によって倒れているところを発見される。死因は心不全と見られる。
発見後直ちに森の中に埋葬されたために場所は確定できず。二十世紀の正規末に
いかがわしいといわれながらも、旺盛なる知的好奇心を持ち、前世紀の遺物である
書物の山に囲まれて、最盛期には大学の中に三部屋を匿し文庫に持ち、ほかに
二カ所、五室の秘密武器庫、海外にはパリとキャッツキルにも所有していた。
ブル島には1974ー75年調査に赴いたとき、残してきた書物を探しにいったらしい。
パソコンも所有していなかったので覚悟の自殺と見られる。・・・
 二十一世紀から活動を停止し、ノマド化し、独りで世界中の人のネットワークを
利用して放浪しているという噂が伝わっていたが、氏を記憶している友人の
コメントでは、ブル島の山中に克明に細心の注意をこめて書いた『お千代船』と
いう手製の揮毫本をあるところに秘め匿して来たので、いずれとりにいかなくては
ならないと言っていたので、その書物を探しにいく途中で奇禍にあったものと
思われる。誠に惜しい、馬鹿馬鹿しく、限りなく滑稽な人生であった。」