最近の購入書から 4

 昨日は「土曜の朝」「映画 くちづけ」「ライザ・ミネリ」「プーキー」から
「吉見佑子」というつながりでありまして、これのスタートがピーター・バラカンさん
であるとは面白いと、一人悦にいっていました。ひさしぶりに「吉見佑子」さんの
ことが頭に浮かびましたが、この人の名前がよく思いだせたと、これも喜んでしまい
ました。
 バラカンさんは1951年生まれで、当方と同年であります。うさぎ年でありますよ。
ウィーンフィルコンサートマスターで、教授と呼ばれているライナー・キュッヒル
さんも51年生まれですが、バラカンさんのほうがずっとお若く見えるのはおつむの
せいだけではないですね。
 バラカンさんの経歴についてはウィキペディアなどにも記述があったのですが、
今まで確認もしたことがなくって、どうしてこのように日本語がお上手なのかと思って
おりました。この「ラジオのこちら側で」を読んで、大学で日本語を専攻したことや、
日本の音楽系の出版社国際部に採用されて日本にきて著作権ビジネスに関わることで
サラリーマン生活をスタートさせたことがわかりました。なるほどそうであったのか。
 採用された出版社は、新興楽譜出版社でありまして、ここからでていた音楽雑誌の
ことについて、すこし言及がありました。
「70年代は、ラジオよりも音楽雑誌という紙媒体の情報のほうが力を持っていた時代
です。レコード会社も、雑誌に対して一番プロモーションの力を入れていました。
ぼくがいたシンコーミュージックにも、『ミュージック・ライフ』という音楽ファン
向けの雑誌があり、音楽をまじめんい論じるというよりは、写真が主役でした。
ぼくが就職した頃は、イギリスのロックバンドのクイーンの人気がぐんぐん伸びていて、
その後やはりイギリスのベイ・シティ・ローラーズが、若い女の子にすごい人気でした。
『ミュージック・ライフ』の初代編集長は、全盛期のビートルズにロンドンで面会して
日本人初のインタビューをとってきた星加ルミ子さんです。入社四年目でビートルズ
のインタビューをとるという会社の重大命令を背負って、突然に編集長の肩書きに
なったというエピソードがあります。」
 「ミュージック・ライフ」という雑誌をだしていたところに、バラカンさんがいた
とはですが、この雑誌に文章をのせることはなかったようです。