本が本を呼ぶ 2

 ほんやら洞のご主人で、写真家の甲斐扶佐義さんは、当方よりも学年が一つか二つ上
でありますので、同じような場所にいた可能性が大であります。一番可能性が高いのは
鶴見俊輔さんや北沢さんがかかわっていたべ平連の集会でありましょうか。
北沢恒彦さんの年譜を見ましたら、京都べ平連が解散したのは、ベトナム戦争の停戦
協定が成立した1973年4月とあります。このときは、まだ京都で学生生活を送っており
ましたが、そのころにはすっかりオブローモフ的になっておりました。
北沢恒彦とは何者だったか?」の表紙写真は65年6月の「べ平連」集会のあとのもの
でしょうか。父親に手をひかれた子供がうつっていますが、ストローハットをかぶって、
シャツに半ズボンの少年は、「ぼくは知らない」というぜっけんをつけています。
察するにこれは当時4歳くらいの北沢恒くん(ペンネームは、もちろん黒川創さん
です。)でありましょう。
 甲斐扶佐義さんの文庫本の巻末におかれた文章には、北沢恒彦さんのことが、次のよう
にでてきます。
「(西寺町通り)の東の仁王門から二軒目の寺、専稲寺には、私が三十年来なにかと
お世話になった、京都べ平連の事務局長でもあった北沢恒彦さんの墓がある。」
 北沢さんが亡くなったのは、99年11月のことですから、三十年来というのは、甲斐さ
んが京都の同志社大学に入学してすぐのことのようです。(甲斐さんは、「同志社大学
に入学するも即除籍」とプロフィールにありますから、甲斐さんにとっての」大学」は、
北沢さんの仕掛けるものであったのでしょう。)