今年も「海鳴り」 6

 川崎与志さんによる文章を見たのは、編集工房ノアの「海鳴り」22号のことであり
ました。川崎さんに自慢の息子さんがいらっしゃることは承知していましたが、この
方が、成人してどのようになっているのかは、当方はまったく知らずでした。
 今回の「海鳴り」24号には、「わたしは1960年に函館で生まれ、父が道新をやめる
ときは七歳だった。その後『父のこと 青西啓助氏のこと』(「海鳴り」22号)に
ある通り、中学卒業とともに父を残し帰函、高校三年間を函館ですごした」とあり
ます。(川崎さんと与志さんのお母さんである奥様との出会いは、「ぼくの早稲田
時代」にあるとおりなのでしょう。)
 川崎与志さんの「父の函館、わたしの函館」の書き出しは、つぎのようになります。
「父・川崎彰彦が函館にいたのは1958年から67年までの9年余で、25歳から34歳にあ
たる。北海道新聞函館支社につとめていた。前半6年あまりが整理部、そのあと報道部
に異動、夕刊に五稜郭物語を連載したのはこのときだ。
 大阪転居直後から、父は函館についてのエッセイを『月刊はこだて』に書き始める。
道新退社後、初仕事だったのではないか。この連載をもとにして、のちに『私の函館
地図』が出版される。わたしの手元にあるのは1976年たいまつ社刊のものだが、
ガリ刷りのオリジナル版は前年刊)、たしか函館市内の書店でベストセラー十位内
にはいったこともあったのだ。」
 当方は、これまでも何度か「私の函館地図」を話題にしておりました。当方にとっ
ては「夜がらすの記」とならんで偏愛の一冊であります。たまたま仕事で取材を受け
北海道新聞の女性記者が函館支社へと転勤になると聞いて、このような人も函館
支社にはいたよと、たいまつ社版の「私の函館地図」をコピーしてプレゼントしたの
でありますが、これにはまったく反応がありませんでした。もちろん、彼女は現在も
新聞記者として活躍しているようでありまして、おちこぼれの記者の話なんてと思っ
たでしょうか。
 高村三郎さんの孔版印刷による「私の函館地図」(境涯準備社)は、いまではレア
なものでしょう。当方の手元にあるものは、保存状態がよろしくないのですが、
息子さんの手元にもないということなので、書影をかかげてみることにいたしましょ
う。