編集工房ノア「海鳴り」2

 「海鳴り」22号を手にして、息子さんの手による川崎彰彦さんについての文章を
見ていたのですが、「ノアはぼくのホームグラウンドだから」という川崎さんの
言葉が頭に浮かんできて、昨日はそれを記しました。(以前も記したことがありま
した。)
 この言葉は、編集工房ノアからでた川崎さんの本のあとがきのなかにあったものと
思って、その出所を確認しなくてはと手近にあったノアからでた川崎さんの本を
あたってみましたが、これが見つかりません。まさか、当方の思い違いではないはず
でありまして、これはどこにあったものでしょう。もうすこし、この探索は続けます。
( このブログをはじめて、まもなく編集工房ノアと川崎さんをとりあげて、そのよう
に記しているのですから、これが当方の記憶違いであれば、大変でありますからね。
http://d.hatena.ne.jp/vzf12576/20070119 )
 古い新聞の切り抜きを貼ってあるスクラップブックを見ておりましたら、川崎さんが
珍しく息子さんについて記している文章がありました。
かって、川崎さんが在籍していた北海道新聞に寄稿したものです。二日続きのものです
が、新聞には79年3月5日、6日と日付が付されていました。
文章の題は「十二年の軌跡」というもので、これは北海道を離れてから(会社を退社
してからに同じ意味ですか)「もう十二年ほどになる」ということのようです。
「 三年前、大阪文学学校の事務局をやめ、定収のない生活をするようになった。
いつか本紙に札幌の詩人江原光太が月収四万と書いていたが、私のほうが幾分まし
だろう、と優越感をいだいたしだいである。こちらに来たとき小学校1年生だった息子
は、その後、函館の高校にはいり、この二月、卒業した。」
 この新聞を見て、当方は川崎さんに葉書をさしあげたのでしょうね。79年3月20日
消印ある川崎さんからの葉書が、手もとに残っていました。
そこには、「小生の詩集は夏か秋になりそうですが、出ましたら一冊進呈します。一人
息子が京大生になりました。たしか貴兄も学校は京都だったのでは?」とあり、息子
さんが関西に戻ってきて、喜んでいる様子がうかがえるのでした。
 これにあるのは「竹薮詩集」のことで、79年10月刊で贈っていただいておりました。