今年も「海鳴り」 7

 川崎彰彦さんにとって函館が「第二の故郷」であるとするならば、息子さんである
川崎与志さんにとっての函館は文字通りの故郷であります。
「中学卒業とともに父を残し帰函」とあるとおり、母と息子にとって帰るところは、
函館であったわけです。これはこの街が身近な場所であったからでありましょう。
与志さんの文章には、「母は今も函館にいる。」とありました。
 「ぼくの早稲田時代」に登場する川崎夫人とおぼしき女性のプロフィールであります。
「今井里実は北海道南部 函館と室蘭の間の噴火湾に沿った町の出身で、地元の高校を
卒業後、家出同然に東京へ出、上野駅周辺の宿屋の飯炊き女となって住みこみで働きな
がら、洋裁を専門に教える女子学院に通ったが、宿屋のあるじが変な目つきをするよう
になったので中野へ逃げてきた、とのことだった。感傷家のぼくは、ふーむ苦労してい
るのんだなあ、こういう健気な女がいいなあ、などと思っていた。」
 作中では、この里実さんと結婚することになるのですが、北海道新聞に就職がきまって
母親に結婚を伝えるところのくだりには、次のようにありです。
「『蝦夷地』のごとき『人跡稀な地の果て』にわが子を旅たたせるということで限りなく
心細く、身もほそる思いだった母親にとって決め手になったらしいのは、そのお嫁さんに
なるという人の実家が北海道にある(つまりこれまで、まったく縁のなかった北海道に
新しく親戚ができて心づよい)ということであったようだ。ぼくは里ちゃんの「家柄」
(嫌な言葉だが)についても若干粉飾し『編曲』した。」
 結婚前の夫人のプロフィールには、田舎から東京にでてたくましく生きる姿がみてと
れます。新聞記者をやめて、先の見通しのないなか大阪に移り住んだ川崎さんについて
いくからには、このようなたくましさがなくてはいけないのでしょう。
 もちろん、愛想尽かしをして、函館に戻ってきてからの息子さんとの生活は大変で
あったと思われます。函館でどのようにして生活を支えていたかは、息子さんによる
今回の文章で紹介されています。
 しかし子どもは親を選べないといいますが、子どもから見た父は「ウットーシイ」
だけの人であったとのことです。その評価がかわるのは、父と距離をおくことによっ
て、一人の文学者として見ることができるようになったことによるとあります。
 できれば、私小説作家の家族にはなりたくないものであります。