今年も「海鳴り」 5

 川崎彰彦さんを偲ぶ会を「夜がらす忌」というのだそうですが、二月四日の命日
近くではなく、四月に行われることとなっているようです。
「夜がらす」というのは、もちろん川崎さんの代表作となる連作集「夜がらすの記」
によっています。
「手近な字引に『よがらす(夜烏)1夜鳴く鳥。2ゴイサギの異称。』とある。
わたしはゴイサギが好きだが、それは彼が夜の鳥だからである。雲の低く垂れこめた
小暗い夜『クワッ・・・クワッ・・・』と言葉すくなに叫びを洩らしながら一直線に
飛んでいく鳥だからである。しかも北河内平野に住むわたしにはごく身近な鳥なのだ。
 わたしは夜鳴く禽類全般が好きなのである。」
 上に引いたのは、連作集の最後におかれた「夜がらすの記」の書き出しであります。
最初の脳出血から立ち直って、左手で書いた最初の作品でしょうか。最初に倒れたの
は48歳でありますからして、それから28年もよくぞ生き延びたものであります。
 同じ作品集に収録の「小人閑居図」には、次のようにもあります。
「青西啓助にも数年前まで奥さんがいた。が、啓助がろくに稼がず、酒ばかり飲んで、
家に金を入れないものだから、ある天気晴朗なれど波高い日、とうとう逃げてしまっ
た。
<あなたは結婚するタイプではありません>という書き置きが残っていた。評論家、
解説者ふうの訣別の辞であって、説得力があった。青西啓助は裁判も慰謝料もなしに
一人身になれたしあわせを何者かに感謝した。」
「一人身になれたしあわせ」とありますが、奥さんと息子さんはどのように感じて
いたのでしょうかとずっと思っておりました。
 生き別れとなった息子さんのことを知るようになったのは、川崎さんが亡くなり、
息子さんが喪主をつとめたことによりますが、そのあとには、「海鳴り」に文章を
発表するとは思ってもみませんでした。
 今年の「海鳴り」24号に、川崎与志さんは「父の函館 わたしの函館」という文章を
寄せています。