中村とうようさん追悼 17

 中村とうようさんのことを思い出すというと、60年代の前半から70年代の半ば頃まで
に当方がなじんでいた音楽シーンのことに思いがいたります。
 最近手にした「en-taxi」48号は、特集が「1970年代は何だったのか」でありまし
た。坪内祐三さんが、特集の冒頭の文章「1970年代にまかれた特別な種はどこに行っ
たか」で、「すなわち三人の自殺は、1970年代的なものの終焉を思わせた。ここで私が
言う1970年代的なものの一つにロックがあって、彼ら三人はそれを体現していた。」と
書いています。
 この三人というのは、加藤和彦今野雄二中村とうようさんのことであります。
 この文章に続いておかれている「泉麻人×亀和田武×坪内祐三」の対談でも、坪内
さんは、「今回、70年代特集を組みきっかけとなったのは、三人の自殺なんです。
この三人の自殺って、すごくシンボリックな感じがする。この三人というのは、70年代
カルチュアを背負っていた人たちでしょう。」といっています。
 亀和田さんが、「中村とうようさんはちょっと違うかもしれないけど」という言葉で
この発言を受けています。(「違う」といっているのは、他の二人との生活スタイルに
ついてでありますが。)亡くなり方が同じではありますが、当方は、この三人のくくり
に違和感を感じるのでありました。 
 この特集に寄稿している和久井光司さんは、「中村とうようさんは、おそらく性格的な
問題から、生涯未婚だった。子供がいなかったから、できた”選択”という気もする。」
と書いていますが、当方のように書いたものでしか、中村とうようさんのことを知らない
ものと較べますと、生身のとうようさんとお付き合いをしていた人たちは、けっこう大変
であったのでしょう。
 当方の身内に中南米音楽(特にキューバとかブラジルの)の熱心な愛好家がいて、ある
とき、わざわざキューバまで音楽を聞きにいった(ちょうど、USAとの関係が悪化した
時で、行って帰ってこれるのか家族は心配したものです。)のですが、その時に、
キューバで録音したり、購入した音源をコピーして、中村とうようさんに送ったら、
それに倍して、お返しをいただいたと聞きました。彼は、「とうようさんは、人に借りを
つくるのがいやな人のようだ。」といってたのを記憶しています。
 歳をとるというのは、いろいろな意味で他人に借りをつくることでありまして、それを
受け入れがたいとすると、自裁するしかないのでありましょうか。
en-taxi」48号特集「1970年代は何だったのか」で、一番喜んだのは小西康陽さん
の「1970年代の音楽について考えていたら、音楽雑誌のことばかりを思い出した。」
と題された文章であります。先日にも、小西さんがメル・トーメのアルバムをあげていた
と記したところですが、今回の文章では、渋谷ブラックホークの松平維秋さんのことを
とりあげていて、これに反応です。(松平さんが1999年になくなったことを、これで
知りました。)
 ちょうど1970年4月(当方が大学に入って京都に住むようになった時です。)に
FM大阪が開局して、ここで「ビート・オン・プラザ」という番組がはじまって、これを
聞くようになったのですが、これの初代DJ デデさんのインタビューに、2代目のDJ 
松平維秋さんの名前があって、なつかしく思いだしました。
http://www.d-radio.or.jp/what/p06.html
 雑誌「ニューミュージック・マガジン」と「ビート・オン・プラザ」が、どうつながる
かは、「en-taxi」48号の小西康陽さんの文章を、ぜひともお読みください。