小沢信男著作 234

 田所泉さんは、二十歳にしてメーデー事件の被告人となり、その後メーデー被告団
の事務局をつとめた経歴をもち、長く被告団のとりまとめ役をつとめていたようで
あります。まず、この裁判闘争を闘うことが、生活の中心であったようにみえます。
 その後に、大学を卒業し、日本新聞協会に就職、「メーデー裁判 闘いの記録」
などをまとめて刊行などを行ったのち、1958年「新日本文学会」に入会とあります。
 メーデー事件での無罪が確定したのは1970年 38歳のときでしたが、全体の裁判が
決着したのは1972年 40歳の時だそうです。(田所泉年譜 「楠ノ木考」所収)
この裁判が終結したことにより、田所さんの活躍の場は拡がっていきます。
 田所さんには、次のような顔がありました。それは日本新聞協会の職員、メーデー
被告団の事務局役、新日本文学会会員、大学の非常勤講師(マスメディア論)となり
ます。まさに八面六臂の活躍ぶりです。
 しかし、この活躍というのは、どちらというと苦労が多くして、あまり報われる
ことのないもののようです。
 小沢信男さんの「通り過ぎた人々」には、次のようにあります。
「田所泉はひきうけた。愚痴をこぼさず、壮語も叩かず、むだな口数のほんとうに
すくない人だった。おかげで消耗的な混乱が避けられた。そしてその荷を彼は担い
きった。
 この時期(70年代はじめから80年代にかけて)、彼は財政部長、編集長、事務局長
等を歴任し、日本文学学校のチューターを再々受けもち、その卒業生たちの勉強会に
もまめにつきあっていた。そのての繁務は彼ひとりにかぎらないけれども、彼に即し
ていえば、メーデー事件がかたづいた隙間へ、新日本文学がなだれこんだようなもの
だろう。」
 83年には、日本新聞協会開発部長となったのですが、そのかたわら新日本文学会
事務局長を再びひきうけることになります。このころから、だれも引き受け手がない
時は、田所さんや小沢さんに役割がまわってくるようになっていたようです。