小沢信男著作 241

 小沢信男さんについで事務局長となったのは、野呂重雄さんでした。前に野呂重雄さん
に言及したときにも引用しましたが、小沢さんは解散提起のなかで、「野呂重雄は血の
小便流して苦しんだんだよ、この借金をどうするかと。」といっています。
 小沢さんは事務局長を野呂さんにおしつけたといっています。新日本文学会の事務局長
というのは、会の運営を担う役割でありますが、借金はある、活動家集団 思想運動に
拠る会員達の脱退が重なって、二重苦三重苦でありました。
 田所さんによる「覚書」から、1972年のくだりです。
「 当時の会員数はすでに三〇〇人を下回っていた。一九六六年の第一二回大会にくらべ
ても二割近い減少である。七二年二月に武井が大会、「思想運動」の中心メンバーが少し
ずつ退会していった。・・六十年代の会運動を代表するかのように活動しえいた人々の
離脱は、やはり痛手だった。
 一九七二年の夏、新日本文学会はまたもや財政危機を経験した。機関誌の製作費未払い
がかさんだうえ、手元の現金も底をついた。この年の五月から事務局長になった野呂重雄
は、『新日本文学』十月号の事務局編集ページ『新日本文学通信』で、『大胆に発想の
転換をはかるべき時がきている』と題して、『現実を直視すれば、新日本文学会は解体の
過程にあることは明らかだ』と書き徹底的な討論のためには機関誌を『一時休刊し、新し
い構想が熟するまで、再発行することはひかえるべき』と提案した。」
 結局は、機関誌は思い切った減ページのうえ合併号として、編集長を幹事会議長の小沢
信男に代えるというという形で「再出発・再組織」を図ったのだそうですが、その結果、
「雑誌発行の財政負担が軽くなったのが幸いして、この年の第一次オイルショックに伴う
諸物価の暴騰にも耐えることができた。」
 小沢さんは、リリーフのように編集長を務めるのですが、事務局長の野呂重雄さんの
ためであれば、ひとはだもふた肌もぬがなくはです。
ちなみに翌73年に野呂重雄さんは、事務局長をおりて、編集長も小沢さんから田所泉さ
んとなるのでした。(田所編集長のあとは、またまた小沢信男さんとなります。)
 結局、この時期の危機を乗り切るに力を尽くした、小沢、田所、野呂という面々が、
新日本文学会の解散にあたっても、中心的な役割を果たしたことがわかります。