小沢信男著作 162

 小沢信男さんの文章「本所 あの道 この道」によって、写真家 高田行庸さんの
実家の足跡をたどっています。高田家は、本所で家業の「下駄塗装業」を営んでいるの
ですが、関東大震災東京大空襲で罹災して、家業の継続が難しくなるのでした。
 それでも関東大震災で、高田家は浪吉さんの母と妹三人を失うものの、なんとか家業
を継続することはできたようです。
 小沢さんは、次のように書いています。
「 高田家の場合はどうであったか、歌人の浪吉はすでに別居し、次弟の栄二郎が家業
を継ぎ、震災のときにまだ小学生だった三弟の勇蔵も、やがて下駄塗り師となった。
鎌倉塗りの高級下駄は浅草の芸者衆がいい得意で、勇蔵は腕も気っ腑もいい遊び人に
育って、兄たちとはだいぶちがう昭和の青春だった。
 窮屈な軍国時代となって、ようやく勇蔵は世帯をもった。二人目の赤ん坊が生まれる
ころに、召集令がきて、戦争末期のロートル水兵となる。残された妻は、三歳の長男を
伊勢の実家に疎開させた。そこへ三月十日がきた。炎のなかを乳呑み児の次男を背負って
逃げに逃げ、総武線の高架下へもぐり込んで助かった。・・
 焼跡をわが家のあたりへもどってみると、東は亀戸の先まで、西は上野の山まで見通し
だった。・・
 家族はこうして生きのびたが、三十四歳の高田水兵は、輸送船の警備中に米軍機の襲撃
をうけて無念の戦死。やはりもどらない人になった。敗戦のわずか一と月前だった。・・
 戦後の高田家は、どうであったか。
 初代は戦中に没し、二代目の栄二郎も、戦後ほどなく立ち退き先で病没する。家業の
担い手は、これで絶えた。」
 浅草の芸者衆をお得意さんとする鎌倉塗りの高級下駄に塗装という家業は、関東大震災
は乗り越えることができたのですが、息の根をとめられたのは東京大空襲による罹災で
す。
「昭和十九年末から小手調べの空襲がきて、二十年二月には下町があちこち虎刈りにやら
れ、そのあとへ三月十日の大空襲がきた。
 この罹災度は大正大震災も較べられない。震災のときは三日がかりで燃えひろがった
が、空襲はさらに広大な地域を一夜にして焼き尽くした。わけても本所区は九割五分が
全焼した。」
 本所で、何代かにわたって家業を続けているところは、これでもかこれでもかという
災害等を乗り越えているわけですから、すごいことですが、「東京下町親子二代」で
写真家 高田行庸さんがとりあげている二代で、大正大震災前より続いているところは
どのくらいあるでしょうか。