小沢信男著作 161

 高田浪吉さんに話題が戻りまして、昨日はあれこれと勢いで打ち込んでいたのであり
ますが、終わりまして保存するをおしたつもりが、なにをどうしたのでありましょう。
打ち込んだ文字が一瞬にして消えてしまいました。さすがにうちなおす気分にはならず、
小沢信男さんが引用している高田浪吉さんの震災関連の短歌を転記するのが精一杯で
ありました。年に何度か、このようなことがあります。下書きをしているわけでもなく、
行き当たりばったりでのメモのようなものですから、本日の気分次第で、まったく違う
ものにもなるのかもです。
 一昨日に続いて、島木赤彦全集第8巻 書簡集と年譜から話題をいただきます。
震災の時のアララギ発行所は、代々木山谷316にありました。焼け出された浪吉さんが
身を寄せたのは、この場にあった発行所です。ここで、編集実務を担当していたもの
です。
 震災から三週間後に、下諏訪の島木赤彦は、発行所にいる浪吉さんに、次のように
葉書を書いています。
「高田君もふん発せよ文章は君のあの時の光景をただ写生的にありのままに書いて見給へ
きっと非常也」
「あの時の光景を」とあるのは、震災の日の昼から翌日の朝まで、隅田川の水につかって
いたときに見たものであると思われます。この葉書には、文章とありますが、その年の
アララギ」十月号は、(震災)報告号として下諏訪でだすとありますので、浪吉さん
は、その報告号に文章をよせたのでしょうか。
 昨日に記した次の作品など、いかにもこの赤彦のアドバイスをうけたもののように
思えます。
 目に見ゆるものみな火なり川にゐて暁まちかぬるわがこころかな

 赤彦の年譜には、アララギ発行所は大正十三年四月二十七日 麹町区下六番町二十七
佐々木修方に転居とあり、藤澤古實・高田浪吉も一緒に転居して、同居は継続とありま
す。赤彦は大正十五年三月二十七日になくなるのですが、浪吉さんは、このときまで
赤彦を助けて編集をしていたのでしょうか。
 赤彦は、東京では浪吉さんと一緒に暮らしていたせいもあり、目をかけていることが
わかる書簡が多く残されています。
 大正十三年六月十三日に赤彦から浪吉さんに送られた葉書です。
「 十五日は上スワへ着いたら直ぐ拙宅へ御出でくださいいくら早くてもいいゆゑ直ぐ
やって来給へ朝飯はこちらで用意をしておく右御承知ください。」
 当時の列車が上スワにどのくらいの時間につくのかわかりませんが、この文面をみる
かぎり夜が明けてまもなくという感じでありますね。
大正十三年九月二十六日には、発行所内諸君宛ということで、次のようにあります。
「 高田君病気心に掛り御一報願上候具合傾向悪しくば断然入院の事大切大切の事 諸君
に万事御願いたし難有存候」
 前発行所住所におすまいの岡三郎さんには、その二日後に、次のように書いています。
「 拝啓高田病気につき御配慮下され且つ御手配下され恐縮の至奉存候御手紙忝く拝見い
たし候何うやら大した事にならぬらしく喜しく存候御多用中とんだ御心配に預り返す返す
大謝の至奉存候」
 浪吉さんのことは、パリにいる斎藤茂吉の元へも知らされます。この手紙は大正十三年
十月のものです。
「高田も可なり苦しい努力で夜九時頃本所より帰って夜十二時頃迄アララギの用をして
ゐる」
 この手紙を見ますと、発行所に住み込みながら、昼間は本所へといって家業に従事し
て、夜は編集をしていたように見えます。
 大正十四年八月二十九日には、東京に水害があって、「本所高田君お宅如何御無事を
祈る」とあります。
 アララギ発行所に住み込みで修業していた浪吉さんは、「昭和四年(1929)歌集
『川波』を刊行し、その巻末にこう記した。」と小沢さんの文章はいっています。
以下は、浪吉さんの巻末文章の一部です。
「私は、本所の隅田川のほとりに生れて、いまもそこに祖母、父、弟妹達と一緒にゐる。
とにかく家も父の力で一軒建って恙なく居り、をりをり木枯の吹いて空のよく晴れた
夕べは、家根の上から富士山が遠く見えるのは幸福の一つである。目のまへに大川が
ゆるく流れて私のこころを新らしくする。」
 浪吉さんは、1898年生まれですから、この時31歳でありました。